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2009年8月17日 [大東亜戦争]

 8月だから、というわけではありませんが、今日もこの話題です(興味のない方、申し訳ありません)。私が制作を企画中のゲーム「大東亜戦争」に関して、ブログの読者の方(シミュレーション・ゲームを趣味とされている方)から、批判的なご意見のメールをいただきました。

 私はこのゲームを出版することで、シミュレーション・ゲームというホビーを愛する仲間に迷惑をかけることはしたくないですし、もしそうなる可能性が高いと判断すれば、企画を撤回して出版計画を破棄することも考えています。

 ただ、私は決して安易な気持ちでこのゲームの制作を考えているわけではありません。下記のご指摘にありますとおり、私がブログで公開しているこのゲームのコンセプトは、非常にデリケートな問題を孕んでおり、安易な考えで制作したり販売したりできるものではないことは、充分に承知しているつもりです。
 理由は後述しますが、仮題の「大東亜戦争」も、安易な気持ちでつけたのではなく、これ以外のタイトルはこのゲームにはふさわしくないと私なりに熟考してつけたものです。

 件のメールを拝見して、いくつか私の意図をご説明した方がいいかと思う部分がありましたので、質問された方の許可を得て、個々のご指摘への私の回答という形で、少し書かせていただこうと思います(回答部分は少し加筆した箇所があります)。これを読まれる全ての方に納得していただけるかどうかはわかりませんが、とりあえず私の考えをより正確に、お伝えしておきたいと思いました。

 非常に長いエントリとなってしまいましたが、二回以上に分けたりしづらい内容ということもあり、今回だけということで、ご容赦いただければ幸いです。

  そもそも、このゲームは、何のためにつくられるのでしょう。  ご自分でお書きになっているように、「娯楽性を優先順位の下位に置く」ということであるなら、商業ゲームではありませんね。

 山崎さんが提示された問題は、本来、歴史研究のかたちで出されるべきもので、遊戯であり娯楽であるという宿命を背負うゲームとしては扱えないものではないでしょうか。

 私は、上に書かれている二つの定義には同意しかねます。

 まず、私が何のためにゲームを作るかという点についてですが、私がシミュレーション・ゲームのデザインを今でも(つまり文筆業者として一定の「発表の場」を与えていただけるようになってからも)続けているのは、文章による記述では表現できない私なりの「歴史認識」を表現する上で、貴重な手段だと思うからです。
 言い換えれば、文章で表現ではない、またはシミュレーション・ゲームという手法の方がより効果的に表現できると思われる「歴史認識」を表現するために、シミュレーション・ゲームのデザインを続けています。

 私は、SPIの“Red Sun Rising”をシックス・アングルズ別冊「戦略級 日露戦争」として翻訳出版した際、ルールの不明点やコンポーネントの改良を検証するため、このゲームを繰り返しテストしました。その中で、日本海軍による旅順港の閉塞作戦や、日本陸軍による旅順要塞への突撃を、ユニットに何度も実行させました。
 どんどん消耗して人が死んでいく、しかし国家のため、勝利のためには、その実行を命令せざるを得ない。大陸に展開する日本陸軍の「後顧の憂い」を取り除くため、一刻も早く旅順を陥落させないといけない。
 楽しいとはあまり思えず、本当につらい気持ちでプレイしました。テストを手伝ってくれてた石田さんからも、後で「あの旅順攻撃の時の山崎さんのため息は、聴いているのがつらかった」と言われました。

 そういう「つらさ」や「戦争の冷酷さ」を、書物とは違う形で、つまり左脳ではなく右脳で、知識ではなく感覚あるいは「(主観に依存した)擬似経験」として、プレイヤーに実感させてくれるのが、シミュレーション・ゲームの特徴であり、固有の存在意義だと私は思います。

 次に、私は「このゲームのデザインに関しては、娯楽性を優先順位の下位に置く」とは書きましたが、それが「商業ゲームではない」とは書いていませんし、「遊戯であり娯楽であるという宿命を背負うゲーム」という定義にも全面的には賛同できません。一般論として言えば、「シミュレーション・ゲーム=娯楽」という価値観は、現在のゲーマーと呼ばれる人々に当然のごとく受け入れられているものであり、それ自体を否定するつもりはありません。

 しかし、シミュレーション・ゲームという「表現手法」が、必ずしも娯楽性を価値判断基準の第一位に置かなくてはならないとは、私は思っていません。そのような固体観念は、シミュレーション・ゲームという表現手法が内包している発展性や可能性を阻害し、今ではプレイする人も少なくなった「斜陽の娯楽」という枠内で終わらせるものではないかと思います。

 確か『シミュレイター』誌だったと思いますが、高梨俊一さんが書かれていたゲーム評論記事の中で、シミュレーション・カナダという会社が出版した「アイ・ウィル・ファイト・ノー・モア・フォーエバー」というゲームについて触れられていました(記事の現物がないので記憶に頼って書いていますが、かなり印象が強かったので、ゲームの名前ははっきりと覚えています)。
 このゲームは、アメリカの「インディアン『討伐』戦争」を正面から描いたゲームで、娯楽性という点では評価のしようもない作品ではあるそうですが(私はゲームの現物は持っていません)、高梨さんは「シミュレーション・ゲームという表現手法に可能性を開くゲーム」という風な、肯定的な評価をされていたと記憶しています(「思想表現の一手段」みたいな言葉を使われていたかと思いますが、少し記憶が曖昧です)。

 価値判断基準の第一位に娯楽性を置かないゲームは、現実問題として、商業出版物としてはほとんど成立しえないものではあります。しかし、「娯楽性を優先順位の下位に置く」と明確にユーザーに告知し、娯楽性以外の「歴史認識の表現」を意図したゲームであることを理解した人だけが購入できる形にすれば、価格設定は高めになるとしても、「娯楽性を追求しないゲームの出版を商業的に成立させる」ことは不可能ではないと私は考えています。

 以上のご説明の上で、改めて私がゲーム「大東亜戦争」を「何のために作るのか」という点についてご説明させていただきますが、ブログやシックス・アングルズ第13号の「第6の視角」で書きました通り、私はこのゲームで「あの戦争において両軍の戦争指導者が抱き、行動の動機としていた価値判断基準の根本的な違い」についての私なりの認識(分析の結果)を表現しようと意図しています。

 もちろん、どういうゲームをデザインし、発行するかは、山崎さんのご自由です。しかし、ここまで記してきたような倫理性の側面を考えていただきたいと思います(当該ブログを、奥様や、ゲームとは関係ないご友人に示して、どんな反応を見せるか、試してみたらいかがでしょうか)。

 学研のいろいろな媒体の編集者さんや、ゲーム以外で共通の趣味を持つ友人は、既にこのブログを見ているはずです(妻も私が自分のブログを持っていて、妻に撮ってきてもらったロンメルのお墓の写真を公開したりしたことは知っているので、自分のPCでもう見ているかもしれません)が、私は自分がブログ記事に書いたことを、人間として恥ずかしい、あるいは倫理観の欠如したものとは思っておりません。
 何度も繰り返して恐縮ですが、私は第二次世界大戦における悲劇的な事象を「娯楽」として表現しようとしているわけではないからです。もし私が「娯楽」としてこのような「テーマの切り取り方」を選んだなら、倫理性の欠如という批判を甘んじて受けなくてはなりませんが、私はこれを「娯楽」にはしないとブログであらかじめ説明しています。

 「特攻や玉砕は悲劇だ」という言葉は数限りなく目にしますが、ではなぜあのような悲劇が起きたのか、という「根源的な原因」を知ろうとする上で、「当時の戦争指導者がそのような行動を兵士に強いた背景」を、シミュレーション・ゲームという手法なら従来の文章表現とは異なる視角から、あるいは文章表現では描けない要素を、表現できるのではないかと、私は考えています。

 山崎さんは、「原爆を投下するか否かという酷な判断を、プレイヤーに課す」ことはしないとお書きになっている一方で、退路を断たれた日本軍ユニットが「自ら攻撃を行って全滅すれば、攻撃実行による勝利得点を獲得できます」とされています。麾下部隊の将兵を、ほぼ100%確実な死に追いやる決定は、「酷な判断」ではないのでしょうか?

 原爆投下の決定をプレイヤーに委ねないことにしたのは、それをゲームに含めば、たとえ「価値判断基準の違いを表現する」という私のデザイン意図を理解してくれている連合軍プレイヤーであっても、恐らくそれを決断できないだろうと考えたからです。
 改めて述べるまでもなく、原爆の投下という行為は、ナチスのホロコーストと同様、広義の戦争指導の中で行われた決定であるのと同時に、人類史上に残る無差別大量殺戮という別次元の惨事として理解されている事象でもあります。

 特攻や玉砕を命じられた兵士たちは、戦争指導部の命令に従わなくてはならない立場にあり、従って命令を受ければ、軍事作戦の延長(統帥の外道とは当時から言われていましたが、敵国の民間人を殺すことを意図した殺戮行為ではありません)として、その「意義」を(無理やりにでも)信じて、それを実行するしかありませんでした。一方、原爆やホロコーストの犠牲者は、ほとんどが民間人であり、戦争指導部の命令系統とは離れた「非軍事的な立場」にいながら、一方的に殺戮された方々です。

 このような視点から、私は戦争遂行過程における特攻や玉砕と、原爆やホロコーストの間に一本の境界線を引いており、なおかつ「最終ターンまでゲームをプレイすれば、米政府が戦争遂行過程で原爆投下の決断を下した動機の一つ」が類推できる形の「価値判断基準」を、連合国の勝利条件という形で、ゲームの中に盛り込むことを考えています。
 「特攻や玉砕の決断はプレイヤーに課して、原爆投下の決断は課さないのはおかしい」というご意見にも一理あるとは思いますが、原爆投下の決断をプレイヤーに課さないのなら、特攻や玉砕の決断をプレイヤーに課すようなゲームをデザイン/出版するのはおかしいというご意見には、私は同意しかねます。

 また、「いわゆる『万歳突撃』は、軍事的合理性の判断ではなく、それとは全く別の次元の、自分および自分の所属部隊の名誉を守るための行動だったのではないかと、私は考えます」と記されていますが、どこに、自分のみならず、部下将兵にも十死零生を強いる「万歳突撃」や「玉砕」を望むものがおりましょう。もちろん、降伏したり、捕虜になったりすれば、自分だけならともかく、故郷の家族親戚がどのような目に遭わされるかわからないという認識、また、それがあり得ると思われるような「空気」が醸成されていたからこそ、大本営は「玉砕」を命じたのだし、現地の指揮官も唯々諾々と従ったのではないでしょうか。

 「特攻や玉砕を命じた大本営の論理」や「現地の指揮官が唯々諾々と従った理由」、あるいは「当時の日本を支配していた空気」については、過去に数多くの書物で語られてきました。しかし、私は本当に「それだけだろうか」と疑問を抱いています。その「疑問」こそが、このゲームのデザインを決心した最大の理由でもあります。

 私は特攻や玉砕を「しょうがなかった」「やむを得なかった」として「空気」のせいにする認識には賛同できません。「どこに、自分のみならず、部下将兵にも十死零生を強いる「万歳突撃」や「玉砕」を望むものがおりましょう」とありますが、海軍反省会のテープには、それを望んでいた人間の存在が示唆されていたのではないかと、私は思います。それを望んだ人間は、そこに肯定的な「意味付け」をしていたはずだと私は思うのですが、それが何かを知るには、当時の日本人の心理を「建前」として支配していた、当時の価値判断基準に目を向ける必要があるのではないかと、私は思います。

 私が今までに読んだ「特攻」についての書物や記事の中で、特に印象に残っているものの一つは、保阪正康氏が『現代』2004年12月号と2005年1月号に寄稿されていた「60年目の特攻隊論」という記事です。
 この記事は、前編の副題に「『英霊論』と『犬死に論』を超えて」とある通り、従来の白黒二元論のような形での「礼賛」や「断罪」としてではなく、当時特攻隊員として出撃した若者の心情を、あらかじめ用意された「美談」や「悲劇」という「物語」の文脈に当てはめるのではなく、当時の価値判断基準の中でありのままに読み取ろうという試みでもあります。
 現代に生きる人間が、特攻隊員の犠牲をどう捉え、そこから何を導き出すかは、今でも重要な意味を持つ問題だと思います。私がこのゲームで提示したいと考えている(今の段階ではそれが成功するかどうかはわかりませんが)のは、そうした問題についての、書物とは異なる「視角」であり、決して彼らの犠牲を「娯楽」や「遊戯」の文脈で楽しめる遊具を作ることではありません。

 ただ、私は現代の人間が現代の倫理観で当時の戦争指導者を裁くことに抵抗を感じています。その上で、当時の戦争指導者を断罪する意図ではなく、「なぜ当時の彼らがそのような決断を下したのか」について、プレイした人間に一つの解釈(「結論」ではもちろんありません)を提示するために、このゲームをデザインしようと考えています。これはもちろん、当時の日本に蔓延していた「空気」の正体を読み解こうという、私なりの試みでもあります。

 「アッツ島における山崎保代大佐の最期の突撃や、硫黄島における栗林忠道中将の最期の突撃も、この方法ならば、当時の価値判断基準とほぼ同じ文脈で、自然に再現できる気がします」と悦に入っておられる(きつい表現で恐縮ですが、そう感じました)ようですが、許されざる人間悲劇を、こうすれば遊戯として自然に再現できるとブログで発信するのは、社会常識に欠ける行為ではないでしょうか。

 先にも述べましたが、このゲームに関しては、私は「許されざる人間悲劇」を「遊戯」として再現しようとしているわけではありません。
 シミュレーション・ゲームには、「遊戯性」や「娯楽性」以上の歴史的価値は存在しないとのご意見をお持ちの方もおられるかと思いますが、しかし私は、特攻や玉砕が発生した原因についての私の認識を、シミュレーション・ゲームという手法で表現することを「遊戯性」や「娯楽性」の文脈では考えていません。「このゲームのデザインに関しては、娯楽性を優先順位の下位に置く」とは、そのような意図を示した文章です。

 この企画が実現したならば、「はい、サイパンで万歳突撃全滅、これで得点10点ね」というような言葉がプレイ中に出てくることになるでしょう。太平洋戦争の経験者、戦死者の遺族に、そんなありさまを見せられるのでしょうか。

 また、プレイヤーのなかには、わざと日本軍を不利な位置におき、つぎつぎと「玉砕」させて得点の獲得をはかるものも出てくるのでしょう。そのとき、山崎さんは、いかにも日本軍らしい動きが自然に再現されたと、ご満足なさるのでしょうか?

 私は先に「このゲームを娯楽性を重視した形ではデザインしない」という方針を申し上げました。成功するかどうかはわかりませんが、プレイテストの段階でそのような「娯楽として楽しめるレベルで特攻や玉砕をプレイヤーが気軽に実行できるゲーム」にしかなっていないと判断すれば、そのようなゲームは未完成あるいは失敗作として、出版するつもりはありません。

 楽しくも面白くもなく、逆にゲーム中「つらい」「重苦しい」決断ばかり強いられる、娯楽性を排したシミュレーション・ゲームというものが、成立し得るか否か、現段階では「し得ると思います」という答えしか私には出せません。しかし私は、中学生の頃、ガラガラの映画館で小林正樹監督「東京裁判」という、娯楽性ゼロの映画を最初から最後まで観ましたが、観なければよかった、別の娯楽映画を観ればよかった、とはまったく思いませんでした。

 ブログのタイトルで、「大東亜戦争」という言葉を、引用符もなく使っておられますが、これはつまり、山崎さんがあの戦争を、アジア解放のための聖戦だと考えている証左だと理解してよろしいのですね……とは、実は思っていませんが、あまりに不用意だと思います。

 山崎さんが無神経に(と、私には思われました)用いた「大東亜戦争」という言葉は、あの戦争を正義の戦争とみなすという態度表明をしていることになります。

 私がカテゴリ分けで「大東亜戦争」と表記しているのは、当然私が構想中のゲームに(仮に)その名称を使うことを意図しているからですが、私は自分が構想しているゲームのコンセプト、つまり「当時の価値判断基準についての歴史認識の表現」という意味において、それが最も適切なタイトルであると考えています。なぜなら、その呼称こそ、当時の日本人全体が共有していた「価値判断基準」を象徴するものだからです。
 もちろん、このような題名を選んだ理由については、後日ブログの記事で説明するつもりでいます(あくまで私の意図を説明するだけなので、それが適当かどうかについて、当然他の方からの異論や抗議は覚悟しないといけないわけですが)。

 「大東亜戦争」「太平洋戦争」「十五年戦争」「アジア太平洋戦争」という呼称の変遷と、それぞれのイデオロギー的立場については、私なりに最低限の理解はしているつもりです(学研の仕事で何度も第二次世界大戦期の日本と連合国の戦いについての原稿を書きましたが、留保なしで「大東亜戦争」という呼称のみを使ったことは一度もなく、たいていは「太平洋戦争/大東亜戦争」と併記する形〔つまり留保つきの形〕をとっています)。

   *   *   *   *   *

 私個人のことはともかく、このゲームに関連した私の発言や行動が、シミュレーション・ゲーム界という社会集団ならびにそれを愛好する人々に対する、社会的な評価や行動につながる可能性があるという点は、非常に重いことだと思いますし、その点について警告するご意見をいただいたことに、深く感謝しています。
 単なる「歴史認識」の範疇に留まらない、さまざまな政治的イデオロギーとの関連性(およびそのような文脈での対立や攻撃を招く危険性)や、戦争で被災された方々ならびに戦没者とそのご遺族に対する配慮などの難しい問題から、否応もなく逃れられない「難しいテーマ」であることを、改めて再認識しました。
 実際にゲームを出版するにしても、一般の人が間違って購入したりせぬよう、小売店の店頭には並べずに「プレオーダーのみの販売」とするなどの方策も一案かと思いますが、内容・出版形態とも、慎重に検討しようと思います。発売する場合には、DVDの「R指定」やゲームソフトにおける暴力・流血の警告文などと同様、表紙裏にはっきりと「娯楽として遊ぶゲームではありません」と明記するということも必要かと思います。

 このゲームについては、まだまだ完成までに多くの「試練」(分析、システム考案、テストといった、物理的な制作上の試行錯誤だけでなく、本当にこのようなゲームを出版すべきかどうか、それによって予想もしない「騒動」が引き起こされて、このホビーを愛する他の方々にご迷惑をおかけするのではないかという自問自答も含めたもの)があるかと思いますし、多くの時間を費やすことになるかと予想しますが、先に述べましたとおり、軽率な考えで制作・出版するつもりはありませんので、その点は繰り返し明言させていただきます。
 今の段階で決めているのは「とりあえずいろいろ勉強しながらゲームを作ってみる」ということだけで、「それを出版・販売する」か否かは、ゲームがある程度出来上がってから考えたいと思います。

   *   *   *   *   *

 今回ご紹介しましたやりとりについて、ぜひブログを読まれた方々のご意見をお聞かせください。

 私は、原稿であれゲームであれ、仕事の内容は戦争をテーマとするものがほとんどですが、自分の書くもの・作るものは、テーマとなっている出来事で犠牲になった方やそのご遺族に見せても、恥ずかしくない形で表現していると思っています。中東戦争などの現代紛争や、沖縄戦の県民あるいは学徒の戦いについての記事も同様です。今作ろうと考えているゲームについても、沖縄やサイパンなど各地の戦場や洋上で亡くなった方のご遺族だけでなく、戦没者の霊前に持っていっても、恥ずべきことはないというところまで、考え抜いた上で出す(出さないという選択肢も保持しますが、もし出すとしたらそこまでする、という意味で)つもりです。

 ただ、このゲームに関しては、私は「デザイナーとして」の姿勢はもちろん、「出版人」としての社会的責任を負わねばならない立場なので、いくら自分が「この挑戦はやる価値がある」と思っても、同じ趣味を持つ大勢の「私とは無関係の方々」が、社会的に大きな迷惑や損害を被るようなリスクがゼロに近くなるように配慮しなくてはならないと考えていますし、私の作った「ゲーム」に接したことで、あの戦争に関わりのあった方の「つらい過去の記憶」という傷口に塩をすり込むようなことがあってはならないと思っています。

 その意味で、実際にゲームのプロトタイプを作ってみて、私の意図したような形には仕上がりそうにないとわかった時には、「構想や制作意図のみ公表するが、商品として出版・販売することは見送る」という選択肢も最後まで視野に入れておく必要があると考えています。
 私は、このような「ゲームシステムに現実の出来事を置き換えて考える思考実験」だけでも、それなりに意義がある試みではないかと思いますし、その意味において、このカテゴリにおけるゲームの制作過程の報告は、今後も少しずつ続けていこうと考えています。
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一ゲーマー

 前回のブログを読みましたが、ゲーマーとして特におかしい、と感じませんでした。
ゲーマーはナチスのホロコーストを知りつつゲームをしている訳で、ヨーロッパ戦線をゲームしながら、太平洋戦争は考える必要がある、と言うのは著しく偏っているように感じましたが。

人としてゲームを遺族の前でする事はないでしょうし、歴史に興味のない人の前でプレイする事もないと思います。それ同等の例えを出す事はそもそもナンセンスだと思いますし、ゲームにイデオロギーを持ち出すのも変だな、と思いました。

純粋に、歴史に興味有るものが、歴史を感じる手段としてゲームを考えればいいと思うのですが。
その為に、当時の考え得る状況をルールとして、システムとして表現を考えるのはごく普通ではないでしょうか?

山崎さんがおもしろ半分にゲームの出版を考えられているなら問題でしょうが、真摯に考えておられるなら、それは過去の傷に塩を塗るとは思えません。
いかがでしょうか?
by 一ゲーマー (2009-08-17 23:06) 

出戻り2008

 先頃、The Gamers社のアウステルリッツというゲームを入手したのですが、このゲーム
“娯楽性を無視した面倒な指令ルールで、戦場に於ける最高司令官が直面する指令の困難さ”の再現を意図したゲーム“
で、ゲームデザイナーはこの非常にに面倒な指令システムこそゲームの核であると述べています。単なる娯楽ではなく、戦争に於ける“ある一面”を追体験したり、考えさせられたりする事を求めるユーザーが存在しているのだと思います。良質なドラマによって、書籍よりも多くの事を伝える事ができる様に(歴史的な出来事に付いても)、ゲームを繰り返しプレイする事でしか伝わらない事もあると、私も思います。

 開発中のゲームに関しましては、既存のゲームで取り上げられていない、太平洋戦争に於ける“ある一面”を考えさせられるゲーム、であると感じ、期待しています。又、“大東亜戦争”というタイトルも、日本人のゲームデザイナーが、真っ向からこのテーマに取り組む意思表示だと、勝手にとらえています。

 “核”のルールに関しては、昔VG社のNATOをプレイした際に、誰も核と化学兵器を使用しなかった事が思い出されます。当時のメンツでこのゲームをプレイすれば、“喜々として万歳突撃をする”、等という事は考えられませんが、このような“デザイナーの意図に反する”行動をとるユーザーや、(祖父の時代の自国の戦争ですから)『日本軍プレイヤーだけがイヤな選択を迫られる、何だこのゲームは!』と拒絶反応を示すユーザーも、確かに存在するのだと思います。それだけでは不十分かもしれませんが、核の使用の選択を排した理由等、デザイナーの意図をある程度詳細に記載された方が良いのではないかと思います。

 VG社のパシフィック・ウォーの様な、“この戦力でどう米軍と戦うか!”、という視点とは別の一面が再現されるゲームに、私は意義があると思います。又、ゲーマー視点で、太平洋上での海上/航空戦闘を山崎様がどう表現されるかに付いても大いに興味がありますし、このゲームが太平洋戦争全般を扱っているなら、日本軍プレイヤーは天国と地獄を味わう事となって、十分娯楽性もあるのではないかと思います。
by 出戻り2008 (2009-08-18 01:04) 

胡散臭いレクイエムなんぞ、まっぴら御免ですよw


ゲーム外への配慮に基づく『人道的理由での核兵器の使用制限』
とかやめてくださいねw

『ここはひとつ、満州の沃野を頂戴致そうではないか!』@岩波新書
                ↑↑↑
こういう時代の風潮にのった人たちが一丸となって始めた戦争でしょ。

核兵器があったら、当時の戦局判断からみれば、
ましてや、日本人にさえ責任を果たさなかった指導者が
外国人に人道云々の思いをいたす事などありえなかったでしょう。

 核兵器があれば確実に使っていたでしょう。開発できたていたらのifですが…

縛りがあるとすれば技術的な縛りしかないのではないでしょうか?
まず、1回目は無制限使用、2回目以降で天皇による拒否権(6・6)ぐらいが妥当なんじゃないですか?

正直、8月のこの時期にでてくるHIROSHIMA・NAGASAKI的な
胡散臭いレクイエムの無責任さにはうんざりです。

あの戦争を、『聖戦』ましてや『聖敗』なんかにすることは許されない。
できる限りありのままを表現しないのなら、生き残った者による死者への冒涜でしょう。

ありのままを伝えた時、気づかされるのが

『今の官僚たちって、当時と全然変わってないじゃん…』

ということです。

失敗を100%正確ではなくとも、冷静に分析できない事は
私たち日本人の最大の欠点です。

今のアジア情勢を見た時、私たちはもっとタフにならなければ
生き残ってはいけない瀬戸際だと思います。

戦争は終戦でも戦後でもなく、ずっと続いているんです。

20世紀の失敗を21世紀に伝えるためには、もっと冷静になって欲しいです。
っていうか、ゲームにそこまで背負わせるのは酷というか思い上がりにさえ思えてきました。ゲームではありのまま表現させて、プレイし終わった跡でプレーヤーが『人間の業』に思いを馳せる…これが限界ではないでしょうか?

変ないちゃもんをつけてくる人には
『私は、そのような高尚な”創作”活動には興味はありません』
『私は、シミュレーション・”ゲーム”しかつくれません』
と返信し、バランタイン30年ものを一杯引っ掛けて忘れてしまおう。
それで終わりだ。


by 胡散臭いレクイエムなんぞ、まっぴら御免ですよw (2009-08-18 05:38) 

胡散臭いレクイエムなんぞ、まっぴら御免ですよw

>ゲームではありのまま表現させて、プレイし終わった跡で
>プレーヤーが『人間の業』に思いを馳せる…これが限界ではないでしょうか?

×:プレイし終わった跡で
◎:プレイし終わった後で

HIROSHIMA・NAGASAKI的レクイエムが胡散臭いのは
自分たちも戦争に加担した事については『騙されていました』で済ましている事です。広島が!長崎が!だけでは、人間の業や人道を語るには片手落ちだと思います。彼らは、当時もし日本が核を開発成功して使用していたら100%新兵器万歳で提灯行列をしていたでしょう。当然、今からは想像できない感覚ですが…

ついでに、百万英霊を人質に靖国に立てこもる無能な軍事官僚を
引きずり出して日本国内問題として敗戦責任を追及すべきでしょう。


by 胡散臭いレクイエムなんぞ、まっぴら御免ですよw (2009-08-18 05:52) 

DSSSM(松浦豊)

 興味深く読ませて頂きました。

 私はCMJで再版された『沖縄』を買った時に、「このゲームをプレイするのは精神的につらそうだ……!!」とウォーゲームに関して初めて思い、それから沖縄戦に関して色々調べたり、また、『ウォーゲーム中でドイツ軍としてソ連兵を殺しまくったり、アメリカ兵としてドイツ兵を殺しまくって、わははとか思っていた自分があった(でも今でもある)のだなぁ』という事に気付かされました。

 実は私も、「日中戦争もので、軍の威信(など)のみを勝利得点として、作戦行動の合理性が問われないで、ゆえにどんどん泥沼化していく事が必然なゲームが作れないか」「戦後官僚が省や局の利益を追い求めて、国が全体としてボロボロになっていく事が自然に、また非常に納得できる追体験ができるカードゲームが作れないか」という様な事を考えたりしています。といっても私の場合は全然夢想なんですけども、そういうゲームが作れれば、「官僚は国のために働くのが当然じゃないか! なぜそうじゃないんだ!?」と(単純に)義憤を感じている人にも「いや、彼らにはそれぞれの抵抗しがたい行動原理というものがあってしまっていて……彼らが単に悪人というわけではない」という様なことが分かってもらえやすくなるのではないか(他にも色々と考えることはありますが)、という様な事を考えたりしています。

 尤も実は『十字軍 -神はそれを欲し給う』というPDFカードゲームをダウンロードできる様にしているんですが、そちらは『沖縄』に出会う前に作った事もあり、「十字軍というものに興味を持つ」事を主眼にし、ひどい行為に「こんなことがあったのか……」という事を思わせるものにはしつつも、史実を面白がる側面がかなりある記述になってしまっているので、今回読ませてもらっていて少し考え直すべきかとも思いました……。

 ゲーム『大東亜戦争』に関してなんですが、そういうアプローチは、私も思ってはいただけに非常に興味深く感じています。そういう、「ゲームから精神的ストレスを感じてそこから学ぶ」というようなゲーム群は、むしろあった方がよいとも思います。

 ただ、リスクをゼロに出来るかというと、私は難しいのじゃないかなぁと考えてしまいます。ウォーゲーム自体がそもそも、世間一般から見れば不謹慎な遊びでしょうし、その中でも、ウォーゲーマーでさえ不謹慎極まりないと思ってしまうということは、誤解としても避けられないだろうなぁと。この世のかなりの部分は誤解から成っていて、それで世の中が動いている事を、このゲームに関しても覚悟しなければならないのではないかなぁ……と。

 一つ解決策としては、出版するのではなく、VASSALモジュールとして発表し、とりあえずそういうゲーム群の第1作としてフリーで頒布するか、あるいは有料ダウンロードできるようにしては……と思ったりしました(有料ダウンロードは、条件さえ整えばかなり有望な選択肢だとも思います)。

 全体として賛否両論、毀誉褒貶がすごい事になると思うのですが、コンセプトノートや、歴史から学び、ゲームから学ぶ様な記事を多く付ける事で、むしろ価値あるものと多くの人が考えてくれるようになるのではないかと思います。それでも批判はやまないと思うのですが、この世に批判のないものなどあり得ないとも思います。ただ、リスクに関しては考えざるを得ないですよね……。

by DSSSM(松浦豊) (2009-08-18 06:29) 

胡散臭いレクイエムなんぞ、まっぴら御免ですよw

>「大東亜戦争」という言葉は、あの戦争を正義の戦争とみなす
>という態度表明をしていることになります。

↑ 『という態度表明をしていることになります。』wなんか、この手紙の人って
思い込みで偉そうに決め付けてキモイですね。アグネス?
ゲームを出すなとか言っているんですか?メール全文読みたいですね。

当時の日本人が、当時のマインドで「大東亜戦争」=聖戦と呼んでいた
戦争の中身を検証する。という意味を込めて「大東亜戦争」のままで
いいんじゃないでしょうか?

>倫理性の側面を考えていただきたいと思います
この人、現代の倫理感と当時の倫理観の話をすり変えてませんか?

>この企画が実現したならば、「はい、サイパンで万歳突撃全滅、
>これで得点10点ね」というような言葉がプレイ中に出てくることになるでしょう。
>太平洋戦争の経験者、戦死者の遺族に、そんなありさまを見せられるのでしょうか。

>(当該ブログを、奥様や、ゲームとは関係ないご友人に示して、
>どんな反応を見せるか、試してみたらいかがでしょうか)。
ゲーマーとしてもレベルが低そうですし、しかも、
現実生活とゲームとの区別が出来ない方のようですね。

完全予約(受注に基づく生産)製か、会員制にしたほうがいいかもですね。



by 胡散臭いレクイエムなんぞ、まっぴら御免ですよw (2009-08-18 06:48) 

胡散臭いレクイエムなんぞ、まっぴら御免ですよw

>「ゲームから精神的ストレスを感じてそこから学ぶ」
同感です。おはようございます。
私はそういったストレスを分析して乗越えることは自分の人生においては
価値のあることだと思います。当然、、当事者だった方には過酷過ぎて
不可能でしょうし、そういう方のお心もちは尊重します。が、全部埋めて
闇に葬ってしまうことは倫理的に間違っていると思います。当事者に
出来ないことを次の世代が手探りでも進めていく必要はあると思います。
が、ゲームにあんまり押し付けるのは荷が重すぎすると思います。
作者の意図を理解せず、自分の意図だけを押し付ける人も多いですから
R指定の完全受注生産でよろしいのではないでしょうか。地震だ!

by 胡散臭いレクイエムなんぞ、まっぴら御免ですよw (2009-08-18 06:59) 

奉公人

ひさーしぶりに、重たい「シミュレーションゲーム」論を読ませていただきました。戦略級日露戦争は、買い逃してしまったため、私はあのゲームをプレーしたことがないのですが、アメリカ人が作ったゲームで、当時の日本軍司令部の苦悩をプレイヤーに味わわせることに成功しているというのは、よく考えればスゴイことですね。

命令を受けて突撃する兵卒も、上からの命令を部下に伝える中間の将校もつらいけれど、死傷者数を知りながら、なお突撃を命令した乃木将軍がどれほどつらかったか・・・・ 仲代達也の映画でもそうした苦悩は描かれてました。「それをどうしても命令しないといけない理由」まで含めて、プレーヤー自身がその決断を下さないといけないゲームは、ご遺族の方にはあまり見せないほうがいいかとも思いますけれども、それはそれで存在価値のある貴重なものだと思いました。本を読んで「つらかっただろうな」と第三者目線で思うのと、ゲームをプレーして「これはつらい決断だな」と当事者目線で感じるのとでは、理解の深さが少しちがってくる気がします。

この趣味と現実に起こった出来事の関係について、最近はあんまり考えてみる機会がありませんでしたが、私はこのホビーをずっとやっていてよかったと思いますし、自分なりにまた答えを模索していこうかな・・・・ などと考えるよい機会になりました。
by 奉公人 (2009-08-18 12:35) 

アラゴン王

無粋な横レスですいませんが...ウォーゲームには娯楽性だけでなく歴史探求という付加価値があると主張されている山崎さんを、娯楽としてだけウォーゲームを遊んでいる方が、良識や倫理という観点から、批判している...という解釈でよろしいですか?

なんか奇妙というかグロテスク...逆ならまだわかるんですが...といって私も娯楽としてウォーゲームを遊んでいる人間ですけれど、良識とか倫理とかを振りかざして他のゲーマーを批判しようなんていう、えらそうな発想はありません。

良識とか倫理といったものは、本来は個々人がおのおの自分の内面で培っていくもののはずですよね。他人からは内面はのぞけないから、他人の良識や倫理なんてほんとうは誰にもわからないもの。けれど、自分を勝手に良識や倫理の監視者と思い込んだ人や組織が、高圧的に他人にそれを押し付けたり、それが欠落していると勝手に判断した人間の発言や行動を封じようとする光景は、私の実体験でも歴史書の記述の中でも、たくさん見てきました。

最近では、ウォーゲームの世界にも時たま、そういう自分の考えに凝り固まった人の姿を見かけるようになって、少し悲しいです。

特攻や玉砕を生んだ悲劇、その背景として語られる空気、その空気を形成した要因の一つこそ、自分を勝手に良識や倫理の監視者/代弁者と思い込んだ人/組織による、言論弾圧や思想統制だったとは言えないでしょうか。

玉砕や特攻という英雄的行為に反対を唱える奴は、非国民だ。玉砕や特攻という英雄的行為に疑問を持つことは、倫理や道徳に欠けた恥ずべき思想だ。という戦争末期の空気に似たものを、このやりとりの中に少し感じてしまいました。
by アラゴン王 (2009-08-18 21:36) 

胡散臭いレクイエムなんぞ、まっぴら御免ですよw

>許されざる人間悲劇を、こうすれば遊戯として自然に再現できると
×:許されざる人間悲劇をこうすれば
◎:有史来人間が背負ってきた業の一端の解明を試み、

×:遊戯として
◎:モデル化を行い

×:自然に再現できると
◎:その是非を検討(シミュレーション)可能なシステムを構築できそうだと
いう事のどこが悪いの?

 大体、『許されざる人間的悲劇』とか決め付けて笑っちゃいますよね。
 『剣道』は許されざる殺し合いの遊戯化ですか?
 空想上の美化した立場に立ってする胡散臭いお説教はまっぴらです。

 この人の理論、人間の文化・文明の進歩を根本的に否定してます。

 私たち人間は野蛮で残虐な業を背負った生き物です。

 ですが、その思考の中において『鎮魂・慰霊の思い』と、
 『反省・批判・分析』は相反するものではないと思います。

 ナポレオン、アメリカ、ヒトラー、毛沢東etc
 勝者の英雄譚は検閲スルーでOKなのに
 敗者には臭い物には蓋なんでしょうか?

>ブログで発信するのは、社会常識に欠ける行為ではないでしょうか。
 インターネットが普及して久しい昨今、双方向メディアのブログ発信を、
情報の一方的な押し付けであるTVや大本営発表と同義であるかのよう
摩り替えて、それを論拠に高圧的なお説教を振りかざして『悦』にいる行為
こそ恥ずべき事だと思います。

ネットを、中身がない『糾弾する事自体が目的』の『糾弾型メディア』に
貶める人達の方が、よっぽど非建設的で社会的常識に欠けていると思います。

 この人は、ゲームが人々の思いやら価値観を不躾に弄ぶ物のように
 話を誘導していますが、この人自身がネットで人々の思いやら
 価値観を不躾に弄んでいるのはいかがなものでしょうか?

 アナログゲームは、昔と異なりかなり比較的大人に偏ったメディアと
 なっているのではないでしょうか?その意味では、無防備な子供に
 無差別に提供される家電型ゲーム(メディア)とも入手の経緯もかなり
 異なっているのではないでしょうか?ある程度の但し書きで十分だと思います。

>悦に入っておられる(きつい表現で恐縮ですが、そう感じました)ようですが、
 トンチン論理を振りかざした挙句すっかり上から目線で
 ご満悦って何なのw痛いですw意図的にこういう挑発をする人とは
 議論したくないですね。

 『全体主義は一見抵抗しがたい大義を振りかざしやってくる云々』とありました。
 最近、そういうのが増えていて気持ち悪いです。

 鎮魂・慰霊の思いと、反省・批判・分析は
 相反するものではないと思います。

 堂々の、シミュレーション『大東亜戦争』で
 選択肢・可能性を排除しない内容で押し通すべきです。

 押し付けられ歪曲された内容より、プレーヤーがゲーム(ルール)を
 通して過程・結果で色々な考えさせる事こそが
 シミュレーションの価値ではないでしょうか?

 私たち人間は野蛮で残虐な業を背負った生き物です。

 ですが、その過程における失敗を飽くなき知的好奇心を持って分析し
 社会的ルールや芸術やゲームへと昇華させてきました。
 歩みは遅く不完全かもしれませんが、世代にわたって受け継がれてます。
 そして、そういう人間的な活動がよい方向に向かっていると信じる事ができます。
 誰だかが『進歩の伝統』とかといっていたあれです。

 きっと、良くなるよっ!ピース!

by 胡散臭いレクイエムなんぞ、まっぴら御免ですよw (2009-08-18 21:57) 

胡散臭いレクイエムなんぞ、まっぴら御免ですよw


1)シミュレーションゲーム『大東亜戦争』
2)歴史シミュレーション『大東亜戦争』

1)より、2)の方が、山崎さんのご意図にあうかもですね。


by 胡散臭いレクイエムなんぞ、まっぴら御免ですよw (2009-08-18 22:30) 

胡散臭いレクイエムなんぞ、まっぴら御免ですよw

>「娯楽性を優先順位の下位に置く」ということであるなら、
>    ↓↓↓↓↓↓
>商業ゲームではありませんね。

 変てこな論理展開ですよね。何か前段があったのでしょうか?
 飛躍の予感。前触れの無い言いがかり?

 商業ゲームの要件ってどこか業界の取り決めとか
 条例とかにでも定められているんでしょうか?

 娯楽性が優先順位の下位だと、何故、商業ゲームではないのか?
 歴史シミュレーションとしての商業ゲームは駄目なんですかね?

by 胡散臭いレクイエムなんぞ、まっぴら御免ですよw (2009-08-18 23:13) 

鈴木

私も「大東亜戦争」というゲームにちょっと興味があり、真摯な態度で作ってみられることには賛成です(ただしそれを発売するべきかどうかはゲームが出来た時の内容情報を見て改めて賛成するかどうか意見を出したい)が、ここで第三者が記事中に引用されている質問者を執拗に「叩く」というのはいかがなものかと。そんなことをしても何の益もないと思いますし、論点がずれてしまうのでは。
落ち着いて意見を述べ合いましょう。
by 鈴木 (2009-08-19 02:18) 

DSSSM(松浦豊)

 メールを下さった方は、危惧して下さったのではないかとも考えます。「そういう風に考える人、感じる人もいるじゃないか」というのはありがたい指摘で、ならばそう思われないようにどういう配慮ができるだろうかとか、あるいはこれこれの不快感はどうしても与えてしまうらしいという事は分かった上で、どこまでは実行しようとか、そういうことが分かるという意味でも良いことではないかと。

 論理の飛躍は私も若干感じますけども、それはそれとして、指摘のメールからどれだけの良い教訓を引き出せるかの方が、やる価値のあることではないかとも思います(また、論理の飛躍というようなことは、私たち誰にとっても、常に避けることは難しいことなので……)。
by DSSSM(松浦豊) (2009-08-19 06:28) 

Mas-Yamazaki

一ゲーマーさま、出戻り2008さま、胡散臭いレクイエムなんぞ、まっぴら御免ですよwさま、DSSSM(松浦豊) さま、奉公人さま、アラゴン王さま、鈴木さま: コメントならびにご意見・ご提案ありがとうございます。メールでも、何通かご意見やご提案をいただき、このテーマに対する私のアプローチ方法に、関心を持って下さっている方が多いことを知りました。

ブログ記事でも述べましたように、私は今の自分にこの作業を一人でできる能力や知識が備わっているとは考えておらず、今後さらに勉強を重ねながら、石を積み上げるような感じで、ゲームを少しずつ作っていこうと思います(今、「感じ」と変換しようとしたら「莞爾」という文字が出てきて、一瞬後ろを振り返りましたが)。

DSSSM(松浦豊) さんが書かれているとおり、ご批判の内容も「貴重なご指摘」だと私は考えていますし、賛否両論ある中から「どれだけの良い教訓を引き出せるか」が重要だと思っています。とりあえず、この話題については今はいったん収束ということで、何か進展があり次第、新しいエントリの形で報告させていただきます。

貴重なご意見をいただき、ありがとうございました。今後とも、よろしくお願いします。
by Mas-Yamazaki (2009-08-19 19:59) 

じゅん

普段は読ませて頂いているだけですが、応援の意味で初めてコメントします。
娯楽性の有無は関係なく、「ゲームでしか体験しえないこと」というのは確実にあると思います。知識として知りえたのではなく、心の底から、だからなんだ、わかった!という感触が、過去のSLG経験の中で、しばしばありました。
私の妻でさえ、SLGではありませんが、ロードオブザリングを観て「フロドはヘタレだ」といい、その後、同物語を題材にしたドイツ系ボードゲームを何度かプレイした後に「フロドの凄さがようやくわかった」という経験をしたくらいです。
SLGというのは、本を読む、映画を観る、それとは又全く別の視点で、歴史を感じることができる、稀有な「メディア」だと思います。
戦争をタブーにすることが、次の戦争を呼ぶのだと思います。作品として完成させて、発表される日を期待しています。
by じゅん (2009-08-19 22:49) 

Almera WRC

 正直SLGの本質を理解されていない方の投稿ではないかと思ってしまいましたね。確かにSLGはゲームではあるものの、その一方でシミュレーションとしての要素があります。言葉として適切な語句がないから“ゲーム”という言葉を使っているだけでいわゆる世間で言い、思われているゲームとは趣をやや異にしていると考えます。

 かつて友人とちょっとした議論があり、このことが以前に書いたプレイをしなくなった切っ掛けの一つでもありました。それはユニットの重みのについての考え方でした。要は1つの駒としてみるか、そこには1人もしくは数万人の兵士が生きていると見るか…。ユニット一つを失うと言うことに関してそこまでシビアなことが想像できるかかどうかが、SLGのキモの部分であると思っています。

 無論娯楽的要素がある以上どこかで勝敗を決する必要もあるし、それはポイントとして扱われる事はやむおえないことです。そしてそこには国によって人の命の重さに差があることも当然の事と思います。ただし玉砕を繰り返して勝てる戦争などあり得るわけがないということはわざわざ書かずとも理解できる種類のことだと思われまが、仮にそのようなプレイを行うような人間は遠からずこの娯楽からは去っていきます。私の友人でユニットを一つの駒としか見られない人間は例外なくこの娯楽からは去っていています。
 当たり前のことではあるが引くことが出来れば引いて他にその戦力を回した方が良い、ではそれが出来ないときにはどうするのか?降伏するのか、最後まで戦い抜くのか?そこにはその国の歴史や国民性、そして部隊の歴史と名誉という要素もそこに含まれるでしょう。これらが重なり合うことによって、どう行動するかが決まってくる。そこには個々人の感情が関与する余地など全くない。それが戦争が無慈悲であることの所以であると考える。
 これはデザイン上のさじ加減ではあるが、ゲームである以上部隊の行動は最大公約数的にならざろう得ない部分があるとは言え、勝利ポイントによってある戦術に誘導するという発想は悪い方法ではないと思う。(ただその判断にプレーヤーが関与できないようにすることも一興かも知れませんね。判定表でも用いて降伏と玉砕がランダムにするとか。)

 「大東亜戦争」、あの戦争を語るのにそもそも太平洋戦争と言う言葉が適切なのかということにすら疑問を感じることがある。日本の戦争目的はまさにアジアを西欧諸国から解放することだったのではなかろうか?無論そこには日本が西欧諸国の後釜に座って植民地支配することが目的だとしてもアジア解放というお題目だけには偽りは一切無い。むしろこの言葉に「聖戦」などと言う意味づけを求め、太平洋戦争などという言葉に置き換えることの方が本質を見誤る元ではないかと危惧する。

 しかしこれを見ているとエポックの「朝鮮戦争」の一件を思い出してしまった。人それぞれに思想や哲学があります。それを押しつけることは非常に危険なことであるし、戦争の原因などは突き詰めればそこに行き着きます。しかし本当に大切なことを見失わなければ何の問題はありません。是非世間に誇れる立派なゲームとしてこの世に生を受けることを期待しております。
by Almera WRC (2009-08-21 19:19) 

ウィリー

ここまで、誰も「それがどんなゲームになるか?」について
議論しようとしないのは、私には不思議で仕方がありません。

少なくとも、山崎さんが再現しようとしている
「万歳突撃か降伏か」が意味を持つようなスケールであれば
一ターンは一週間以下になるでしょう。
もちろん、そういうモンスターゲームを制作するという
意欲を否定する物ではありませんが、それは、たぶん
間違った路地へ迷い込むことになると思います。

確かジョン・トーランドの「大日本帝国の興亡」の一節だったと思うのですが、コレヒドールを巡る戦いについて、こういう意味のことを
書いていたように思います。
「ウェイラントは、日本軍が上陸して12時間で降伏した。
 一方日本軍は12日間戦って玉砕した。
 戦略的に見れば、どちらでも大差ないことだった」
それが差を持つようにデザインするのであれば
そのゲームは、戦略級ではありえないのです。
なぜなら、戦略級ゲームであれば、どちらの場合も
一回のサイコロ振りで、防御側が全滅という結果でしかないでしょうから。

#作戦級でも表現が難しいでしょうね。日本軍が万歳突撃をせざるを得ないほど追い込まれる一方
#連合軍ユニットが降伏を余儀なくされるほど
#連合軍が押し込まれる可能性のある戦場なんて
#まず想像が出来ませんから。
#もちろん、連合軍の損害がそのまま日本軍のVPになるようにして
#連合軍プレイヤーに慎重な対応を要求する
#ゲームであればあり得るでしょう。
#第一次バターン戦や、44年のビルマ、サイパン、硫黄島、沖縄、あるいはアッツ島・・・・。

とりとめが無くなりましたが、結論としては
「問題提起としては適切だと思うけれど
 それは作戦級や戦術級のスケールで問題になることであって
 戦略級ゲームで問題になることではない」
といった所ですね。
もちろん、作戦級のスケールで大東亜戦争を
描くモンスターゲームが作りたい、というのであれば
私も全く違った事をいうのですが。
by ウィリー (2009-08-21 20:14) 

URMW@2009

私は勝手にORIGINS of WWIIのような規模と想像していました。

扱えるのは、狭義(時代限定・戦略級・勝ちか負けか)の大東亜戦争の評価までなのでしょうか。

シミュレーションとしては非戦・限定戦もありえたのか、その後に
おける意義は?といった善悪論ではない広義の大東亜戦争の評価も知りたいです。

結果としての被爆と民族分断の比較はナンセンスかもしれませんが、
全体主義と敗戦のお陰で、その後のイデオロギーによる民族分断を
被らずに済んだのか?といった評価となると、20世紀(戦前~戦後)の
期間や政治要素も必要になってしまいます。の評価は敏感で複雑で混沌すぎですね。

シミュレーションというよりカードゲーム的にして、その評価は
良識ある大人が各自考えてねという方法も選択肢の一つでは
ないでしょうか?自分的には3番が気も楽ですし、
時代に必要なのは広義の大東亜戦争の評価なのかもしれません。

私たちの世代?はほぼリアルで、イデオロギー冷戦⇒歴史の終わり
⇒グローバル(西洋)全体主義⇒文明の衝突的(対イスラム)と
接してきました。⇒次のターゲットは東洋文明(最終戦争)なのですか?
絶望した!宇宙世紀じゃない21世紀に絶望したっ!

>「莞爾」という文字が出てきて、一瞬後ろを振り返りましたが)。
私のところには幹二が来ています(存命中!)。

今度の選挙では、結果として東京裁判が裁ききれなかった
全体主義の中枢(厚生省?)にメスが入る事になって、
何か昭和という100年ドラマの最終章を莞爾て胸騒ぎがしています。

非戦シミュレーションではないですが、、お隣における歴代大統領の
怪死・変死?は、もしや将軍様的死せる孔明作戦…なのか!?と
勘ぐってしまう程にしたたかな瀬戸際外交戦術(戦略?)で東アジアは
また振り出しに戻ったかの様な閉塞感があります。でも、これは今の
日本にとって不幸中の幸いなのかもしれません。アジアが大きく動く前に昭和を総決算。
ご破算で願いまして挙国一致体制で事にあたって欲しいです。

by URMW@2009 (2009-08-22 16:07) 

かわい

私は1ターンが1ヶ月以上でも「戦術的選択の政治的・歴史的意味性」を感じられるデザインは十分可能だと思いますが。
むしろ、戦術的な選択は戦術的なスケールの中でなされるべき、という固定的な観念でデザインしたのでは、おそらく山崎さんが想定しておられるようなリアリティやジレンマは再現されないでしょう。

いずれにせよ、なにをどう再現しようとしているか、なにがどう再現されるかは、デザイナーが構築したシステムを発表するその瞬間まで、あらゆる種類の批判が可能です。
件のメールのような意見も、ここにコメントされたような意見も、所詮はまだ見ぬ何かに対するものでしかなく、デザイナーはそうした意見もあるという事実を踏まえた上で、信じるところを突き進むしかないわけですね。

そういう意味で、山崎さんの対応はお見事だったと評させていただきます。偉そうで恐縮ですが。
by かわい (2009-08-23 00:25) 

Takahasi

>本来「娯楽性」を基準に製作されるべき商品が、そこを基準点にしない(採算度外視的に)で山崎氏は製作したい、だけでしょう。企画会議で社員が、この手の発言をすれば、翌日からロッカーが消えちゃうという奴ですね。

>本来的にはそうであるが「第6の視点」記述を読むと、山崎氏本来の意図
(デザイン)は理解できる。・効率の良い作戦と実施は不自然(史実の可能性追求から、ただの手順ショート カットを競う行動に変わってる論)
・(片方には当然でも、片方には不適切な)勝利目的と価値観の設定は、
 見直されるべき。・「ゲーム」だからこそ未知の可能性を開けるかと。

>あえて「タブー」に対して、正面から挑む山崎氏の意図を、どう解釈するかは、受け取る当人の勝手かと。もし山崎氏の発言や、表現が本当に嫌ならば、奥様や関係者は抗議するでしょう。2009年山崎家の乱ですな。
人体解剖だって、当時の宗教や倫理を背負ってた人々には、いまよりも相当に重い課題だったと想像できます。しかし、あえて実施したのは、唯の興味本位だけでは、説明できません。使命感か名誉欲かは、知りませんが、時間と労力を掛けても惜しまれない、目標として受け入れた結果だとおもいます。

>原爆うんぬんは省くとして、当時の価値観や状況の有り方をルールにすると、このような、矛盾になるのでしょう。これだと攻撃側の方が気を使うという、間抜けなルールです。しかし極限状態において、最新の注意を、互いに払うのはごく当然と思います。

>これは永遠の謎ですね。現在から見て意味不明な集団心理について、合理的な説明は絶対につかないと考えます。むしろ逆説的に、過去にそんな事象(事実誤認でも)があったから、現在の自分達の行動説明に、使用されてるだけにも見えます。山崎氏が番組に触発されて感じた部分は、「そうなんだからそうだ」としか言いようがないかと。

>確かに悲劇を自慢されては、カナワンですね。
しかし、山崎氏はデザイン自慢で論理・解釈説明したわけではないでしょう。むしろ本文には関わり無い、別の文章や表現から、山崎氏の志向・人間性を検証するべきです。表現の自由解釈で、何でも許容とは思いませんが、当人が批判や非難をも受ける覚悟があれば、よいかと。

>「大東亜戦争」というタイトルが商品名に来るのは自然です。
それを表現してる以外の何物でもないでしょう。正義うんぬんとは、山崎氏は一言もいってない。なんで言葉尻で、人間性批判にもってくのか意味不明です。タブーや差別用語は、使用しなければ存在しないんだ という意見にとれます。




by Takahasi (2009-08-23 15:38) 

Mas-Yamazaki

じゅんさま、Almera WRCさま、ウィリーさま、URMW@2009さま、かわいさま、Takahasiさま: コメントならびにご意見・ご提案ありがとうございます。テーマとコンセプトを考えれば、ある意味では当然と言えるのかもしれませんが、私が構想中のゲームについて、関心を抱いて下さる方が多いことは、緊張感が高まる反面、肯定的に評価して下さっている方もたくさんおられるということで、励みにもなります。

とりあえず、ゲームマップの大まかなイメージは頭の中に出来ている(今の時点では、MMPの「シフティング・サンズ」のような、東南アジアのメインエリアとアリューシャン、満州、中国、インド、マダガスカル、オーストラリア南部、フィジー/サモア、ハワイなどの周辺エリアで縮尺を変え、地理的な要地を陸軍の作戦用のポイント・トゥ・ポイントで結ぶ形式で、離れた島と海軍の作戦用の海域エリア境界をここに連結させる予定)ので、まずはそれを実際に作ってみて、そこから少しずつ基本システムを組み立てていくつもりです。また何か進展がありましたら、このブログでご報告いたします。
by Mas-Yamazaki (2009-08-26 18:09) 

大森

こんにちは、いつも山崎さんのゲームも書籍も、
買わせていただいております。
今回ブログを読みまして、遅ればせながら、
コメントをさせていただきたいと思います。

結論から言いますと、
『大東亜戦争』是非、このタイトルで世に送り出して貰いたいものです。
極端な話、過去の戦争を知らない子供、または知ろうとしない、
大人にこそ、これをプレイして欲しいぐらいです。
多分、此処にコメントを残されてる方、もしくは此れを読まれている方は、
歴史認識として、勉強されていると思います。
しかし、大多数の日本人は、過去に何があったか知らない、
興味が無い、で過ごしていることでしょう。
極端な話、アメリカと日本が戦争をしたことすら、知らないと思います。
(こんなことは、皆さんはご存知ですね)
でもあえて言わせていただきますと、
これは、日本の歴史の教え方の問題でもあると思います。
石原都知事が、
『日本の歴史授業は現代からさかのぼって教えるべきだ』
とコメントしていたのを見ました。
私もそのとうりだと思います。
逆にこのゲームが目に留まって、そこから興味が出れば、
それは一人の国際人の出来上がり、
(其処までの大げさでは無いかも知れませんが)
でも新たに歴史を知る人が出来上がると思います。

もう戦争が終わって時間もたち、関係者も殆ど生存していない時代に、
いまさら、遺族に考慮してと言われても、おかしな話だと思います。
現に、お爺ちゃんは、何処何処の島で亡くなったのよ、と言われても、
孫やひ孫はその島に、観光旅行に行っている時代です。
逆に歴史を風化させないと言うなら、
今こそ、しっかりとした日本人目線の物を出されるのが、
宜しいのではないでしょうか。
本や、テレビもこの頃はタブーに踏み込んで表現しています。
文禄の役などもゲームに付く時代となりました。
もうそろそろ、大東亜戦争にも、思想や、倫理感、
諸外国からの横槍を無視して、
日本人としての研究のメスを入れる時代になったと思います。

勝手な意見を長々と述べさせていただきましたが。
私としては、山崎さんの、歴史家としての表現を期待しております。
ただ、山崎さんや、ご家族、関係者に、
恐喝や暴力などが起きませんことを、
(この頃は何があるか想像も出来ませんので)
お祈りいたします。
大々的に売れないなら、コミケで売りません?
これからも頑張ってください。






by 大森 (2009-08-30 22:17) 

韮澤

特攻や玉砕の再現というのもありますが、私は太平洋戦争での日本陸軍と日本海軍の不仲または対立を、ゲームできちんと再現しようというコンセプトに魅力を感じます。

タンネンベルクでレンネンカンプとサムソノフが一致団結してドイツ軍と戦うような作戦級ゲームがあったら恐らく「これはオカシイ」と批判が出るだろうと思います。けれども太平洋戦争のキャンペーンゲームで史実のような日本陸軍と日本海軍の対立やニミッツとマッカーサーの対立が存在せず、陸軍と海軍が一致団結して効率的な作戦を行えても、あまり文句は出ないようなのが今まで不思議でした。

まあ戦争の勝敗は最初からついているので日本軍にこれ以上足枷を増やしてはかわいそうだというデザイナーの思いやりなのかと思っていますが。
by 韮澤 (2009-09-02 20:58) 

Mas-Yamazaki

大森さま: コメントありがとうございます。歴史認識の一手段として、このゲームの発売に期待していただき、大変嬉しく思います。ただ、以前にも書きましたが、このゲームは(もし出版する場合)問題発生のリスクを最低限に減らすために「シミュケーション・ゲームの文脈」をあらかじめ理解している方にのみ販売する予定で、非ゲーマーの一般人に対する販売(「コミケ」での配布も含む)は、今のところ考えておりません。

シミュレーション・ゲームの出版も、送り手と受け手のコミュニケーションの一形態だと思いますが、このゲームに関しては、諸々の事情から、そのコミュニケーションが誠実な形で成立している関係の中でのみ、やりとりできるものだと考えています。幸い、そういった関係を一定のお客さんとの間で成立させられそうな見込みはあるようですし、今後も少しずつ作業を進めていきたいと思います。
by Mas-Yamazaki (2009-09-03 20:09) 

Mas-Yamazaki

韮澤さま: コメントありがとうございます。ご指摘のとおり、日米両軍の陸軍と海軍の対立というのは、今までのゲームではあまり大きくは取り上げられなかったと私も思います。その理由は、やはりご指摘の「デザイナーの思いやり」、つまり「娯楽ゲームとしての楽しみが半減してはプレイヤーが満足しない」ということではないかと思います。

せっかく太平洋全域で機動部隊を動かせるのに、気が滅入るような内輪もめに配慮しながら、毎回ベストではない形で作戦を行わなくてはならないというのは、「最初の1年は自由に暴れまわって見せたい」プレイヤーには楽しくないでしょう。それで、既存のゲームではそういったネガティブな要素を取り除いた形になっていると思いますが、私が作ろうとしているのは、そういった「ネガティブな要素」をテーマの中心に据えているので、やはり人を選ぶゲームにはなりそうですね(笑)。

ただ、他の太平洋戦争/大東亜戦争キャンペーンゲームが既にいろいろと出ているからこそ、私の作ろうとしているような「亜種」のゲームも存在価値が出るのだと思いますし、決して過去に出たゲームの価値を「否定」する文脈ではなく、あくまで「今までとは違った要素に光を当てる」というスタンスで、作業を進めていきたいと思っています。
by Mas-Yamazaki (2009-09-03 20:19) 

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