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2011年7月7日 [その他(映画紹介)]

先日の記事のコメント欄で、昨日の世界さんが題名を書かれていた映画『サイレント・ランニング』のDVDを、昨日鑑賞しました。私は、この映画については何も知らなかったので、ネットで調べてみたところ、現在DVDは絶版でアマゾンのマーケットプレイスでも販売されていないとのこと。しかし幸運にもYahooオークションに出品されていたので、さっそく落札して観てみました。以下、筋書きの重要な部分についても多少触れていますので、まだ観ていない方はご注意ください。

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監督は、ダグラス・トランブルという人で、SFXに関心がある人以外には知名度が低いかもしれません。昔、クリストファー・ウォーケン主演の同監督作品『ブレインストーム』を劇場で観た記憶がありますが、『2001年宇宙の旅』や『未知との遭遇』『ブレードランナー』などの特撮を担当した、いわばSF特殊撮影のスペシャリストです。

作品の舞台は、宇宙に浮かぶ小さな貨物船で、登場する人間はわずか四人。ほとんど「室内劇」のような感じでストーリーが進展します。地球では、何らかの政治的手法により失業や貧困が根絶された反面、植物が絶滅したという設定で、わずかに残った植物を、貨物船に接続した温室のようなドームで研究対象として栽培しています。

四人のうちの一人(主人公)は、植物や動物に愛情を注ぐ研究者ですが、残りの三人は土で生育した果物よりも人工的な栄養食を好んで食べ、退屈しのぎに車を走らせてタイヤで農地を踏みつぶしてしまうような連中で、主人公と普段から衝突しています。そんな時、地球から「植物のドームを爆破して地球に帰還せよ」との指令が届き、三人は大喜びで爆破の準備に着手します。しかし、貴重な植物を絶滅させることに抵抗を感じる主人公は、遂に感情を抑えられなくなり、ドームの植物を守るために三人を(成り行きで)殺して、感情を持った小型ロボットと一緒に逃亡を図ります。

こう書くと、動植物を愛する主人公がある種の「自然を守るヒーロー」として描かれているのか、という印象を持たれるかもしれませんが、それほど単純な筋書きにはなっていませんでした。一人になった主人公は、ロボットたちにポーカーを教えてゲームに興じたりして、三人の仲間を失った寂しさを紛らわそうとしますが、やがて自分が彼らにやったことに疑念を抱くようになり、また場当たり的な振る舞いの結果、ドームの植物が枯れ始めたりして、次第に事態が手に負えなくなって途方に暮れてしまいます。

本人は自然を愛して共存しているつもりでも、実際にはドームの中で、人工的な「システム」に依存して植物を栽培しているに過ぎず、他の船からの無線の問い合わせに対しても、あまり深く考えずに「逃亡」ルートを決めた結果、太陽から離れてしまい、日照不足で植物を弱らせるという失態を演じています。そして、遂にもう逃げられないとわかった時、主人公はある決断を下すのですが、その決断もまた「その場しのぎ」の対処法でしかなく、この映画が作られた1970年代初頭のアメリカ国内で蔓延していたであろう心理的な閉塞感が、ジョーン・バエズの歌声と共に伝わってくるようです。

そんな情けない姿の主人公(あくまで「キャラクター設定」の話です)を脇から支えて、この作品を長く語られる出来にしているのが、感情を持った小さいロボットたちのけなげな姿。ちょっと『スター・ウォーズ』のR2-D2に似ていますが(両方とも、中に人が入って動かしています)、それほど優秀な能力を備えているわけでもなく、移動もヨチヨチとした二足歩行で、命じられた仕事をいっしょうけんめいにこなしていきます。

作品のエンディングは、ロボットの一体がじょうろで植物に水をやっているシーンですが、これは何かの心理テストに使えそうなほど、さまざまな解釈が可能である気がします。とりあえず植物が生き延びて良かった、という人もいれば、いずれ電池が切れて彼ら全てが最期を迎えるだろう、というドライな見方をする人もいるでしょう。あるいは、そのうち異星人に発見されて、植物は新天地で栄えるに違いない、という想像も、不可能ではありません。

しかし、人工物であるロボットが、一番最後に残った自然(植物)の番人を孤独に務めているというのは、強烈な皮肉です。人間と自然の関係とは、いちがいに論じることの難しいテーマですが、そもそも人間が考えるところの「自然」というのは、どんな状態を指すものなのか。これをまず明確化しないと、この作品の主人公の内面(「作品」そのものではありません)と同様、情緒的で場当たり的な「自然礼賛」だけで終わってしまう気がします。

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少し前に、リドリー・スコット監督の『エイリアン』が、NHKのBSで放送されていたので最後まで観ましたが、今回の『サイレント・ランニング』を観ながら、何度かこの作品のことを思い出しました。ご覧になった方ならご存じでしょうが、アッシュという乗組員の一人だけは、他の仲間の生命よりも、途中で発見した「異星人(エイリアン)」という研究対象を地球に持ち帰ることを優先しようとし、それがショッキングな事件へと発展します。

エイリアン』を観ている時、観客のほぼ全員(おそらく)は、宇宙貨物船ノストロモ号の乗員、すなわち「人間陣営」の立場で物事を理解し、行動の是非を判断します。見るからに不気味で気持ちの悪い「異星人陣営」に肩入れする人など、熱狂的なH.R.ギーガー(異星人をデザインした人)ファンを除けば、まず見つからないでしょう。

しかし『エイリアン』のストーリーを改めて振り返ると、事情を知らずに彼らの生活圏(何かの宇宙船に産み付けられた卵)に勝手に入り込んだのは「人間陣営」の方であり、地球以外の広い範囲も含めて考えるなら、この不気味な「異星人」もまた「自然」の一部です。他の生き物に寄生する生物は、地球にもいろいろ存在しますし、彼らはそういう方法でしか子孫を残せないよう神(またはそれに近い何か)からプログラムされている以上、人間との「平和的共存」はおそらく不可能です。

人間が「自然との共存」という時、暗黙のうちに「人間にとって都合のいい自然」だけが共存の対象と見なされているようです。ゴキブリやナメクジと「仲良く共存しよう」などという人は「自然愛好家」ではなく「ちょっと変わった趣味の者」と見なされます。それが悪いと主張するつもりはありませんが、自然というのは本来人間がコントロールできるものではなく、また人間が考えるところの「自然との共存」もまた、人間の利害に叶う形でしか成立し得ない、きわめて限定的かつ不完全なものであることを、この映画(『サイレント・ランニング』の方)を観て改めて思いました。

私自身もまた、庭で栽培する植物やその周囲に棲む生き物を、自分の都合で勝手に選別して、愛情を持って育てたり、無慈悲に刈ったり殺したりしています。しかし、私がもし「失業や貧困が根絶された代わりに植物や虫が絶滅した世界」と「失業や貧困はあるけど植物や虫もいる世界」のどちらかを選択できるとしたら、たぶん後者を選ぶと思います。

映画を見終わった後、ベランダで栽培しているトマトの苗から、今年最初の赤くなったトマトを1個、収穫しました。とりあえず食卓の飾りになっていて、まだ食べていませんが、自然の恵みに感謝しつつ、明日いただきます。

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【おまけ】

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庭で育つプンタレッラの葉っぱをよく見ると… おや?

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赤ちゃんカマキリ。昨年秋、キュウリの支柱に産みつけられた卵のうちの一つが孵ったようです。まだ体長1センチくらい。幸い、人間を襲うことはありません。

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コメント 2

TraJan

山崎さん こんにちは。

私の好きなタイトルにつられてコメントしてしまいます。
中学生の頃(もう30年ほど前になります)にこの映画を見て、衝撃を受けたのを憶えています。以来、一番面白かった映画を問われるとこの映画を挙げています。当時すでにスターウォーズを見た後ですが、派手なシーンがまったくないのにここまで面白いモノができることを見出し、SF小説を良く読むようになりました(当時ビデオは普及していなかったので)。そういった意味で私のSF人生の原点とも言える作品です。
エンディングについては、植物たちを生き延びさせることはできたものの、将来的には発見されるのは確実で、その時の人々に選択を委ねたという風に解釈しました。犯罪者である主人公は罰を受け、植物の選択は後世の人に委ねるという、今から見れば予定調和的なエンディングですが、中学生の私には衝撃的でした。

by TraJan (2011-07-09 12:30) 

Mas-Yamazaki

TraJanさま: コメントありがとうございます(おひさしぶりです)。私は全くこの映画のことを知らなかったのですが、実は知る人ぞ知る秀作だったのですね。確かに、多感な学生時代にこの映画を観ていたら、私もたぶん強い印象を受けたと思います。映画としてはわりと短めですし、笑えるシーンや気に入ったシーンも多々あるので、そのうちまた観ようと思います。
by Mas-Yamazaki (2011-07-14 23:46) 

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