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2018年5月13日 [その他(戦史研究関係)]

先月(4月)後半は、ヨーロッパへの旅行(後述)などもあって、結局更新できずじまいでした。改めて、近況の報告です。

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まず、前回の記事で告知した新刊『1937年の日本人』(朝日新聞出版)が、4月20日に発売となりました。80年前の日本社会がどう変わって行ったのか、当時の日本人の目線に寄り添いながら、日々少しずつ進む空気の変化を丁寧に振り返る内容です。

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最終章では、帝国議会(国会)での国家総動員法の審議中に起きた、佐藤賢了中佐の「黙れ」暴言事件も、前後の経緯を含め「起こるべくして起きた事件」として紹介しています。最近起きた自衛隊三佐の行動とも通底する面があると思います。

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次に、『歴史群像』(学研)6月号が、5月7日に発売となりました。

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今回の私の担当記事は「中近東諸国と第二次大戦」で、同戦争期にイラク、シリア、イラン、パレスチナ等で起きた政治と軍事の戦いについて、俯瞰的に解説しています。英仏対ドイツ、英仏対ソ連、英対イラク、英対仏、英ソ対イラン等、敵味方が頻繁に入れ替わりました。現在の中東情勢に、影を落としている部分もあります。

そして7月6日発売予定の『歴史群像』次号(通巻150号記念号)では、2012年の創刊20周年記念号(8月号)に続き、厚紙のコマとカラーマップでプレイするボードゲームが付録で付く予定です。

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今回もゲームデザインとアートワーク、ルール編集を私が担当しました。2人用の「モスクワ攻防戦」と1人用の「バルジの戦い」です。前回は「日本海軍特集」で「ミッドウェー海戦」と「日本海海戦」のコンボでしたが、今回は「ドイツ陸軍特集」ということで、この組み合わせになりました。

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ゲームマップは、こんな感じです。詳しいゲームの内容については、次の機会に改めて紹介します。



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さて、4月9日から4月20日まで、取材を兼ねた旅行でドイツとチェコ、オーストリアに行ってきました。今回はまずベルリンで四泊し、三日目からはレンタカーを借りて、ザクセンハウゼン、ヴァンゼー、ポツダム、ヴュンスドルフ、ドレスデン、テレジーン(チェコ)、プルゼニ(同)、ニュルンベルク、ブラウナウ(オーストリア)、バートアウスゼー(同)、アルタウッセ(同)、ハルシュタット(同)、ザルツブルク(同)、ベルヒテスガーデン、ミュンヘン、ダッハウ、ノイシュヴァンシュタイン城、ランツベルクなどの歴史的な場所を見て回りました。

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ドイツ現代史に関心のある人なら、上の地名の羅列を見て、旅行のメインテーマを大体推測できるかと思いますが、ドイツ国民の過去との向き合い方と日本国民のそれとを比較すると、ドイツが理想だとは言わないにせよ、やはり大きな違いがあると実感しました。

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ベルリンの絵画館のそばにある「ドイツ抵抗記念センター」という博物館のある建物。ここに面した道「シュタウフェンベルク通り」は、第二次大戦期には「ベンドラー通り」という名で、ドイツ国防軍や陸軍国内軍などの中枢機関が置かれ、第二次大戦末期には、軍部の反ヒトラー運動の拠点として機能しました。

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ドイツ現代史で重要な舞台となった国会(連邦議会)議事堂(ライヒスターク)。ヒトラーとナチスが独裁体制を固める際に利用されたのが1933年の「共産主義者による国会議事堂放火事件」で、ヒトラーとナチス体制が終焉を迎えた1945年には、ベルリンを征服したソ連軍兵士がこの国会議事堂の屋根にソ連の赤い国旗を掲げました。

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「ヨーロッパで虐殺されたユダヤ人のための記念碑」。単に四角い石が並ぶだけに見えますが、中央で地面が下がっており、画一的な石の間を歩くと、アウシュヴィッツで画一的なバラックの間を歩いた時と同じ感覚に襲われて衝撃を受けました。上を見上げても空を石が挟み込む圧迫感。これは凄い記念碑だと思いました。

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「ヨーロッパで虐殺されたユダヤ人のための記念碑」は、かつてヒトラーの総統官房があった区画から、小さい交差点を挟んだ対角線上にあります。ヒトラーが1945年に自殺し、死体がガソリンで焼却された総統官房があった一帯は、今では普通の駐車場や集合住宅になっています。

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ベルリンの西部にある、オリンピック競技場。1936年のベルリン五輪のために建設されたメイン競技場で、屋根やフィールドは改修され、今も大きなスポーツイベントで使われていますが、柱などは当時のまま。施設内にある、各競技の金メダリストを記した壁には、女子水泳の前畑選手など日本人の名前もいくつか並んでいます。

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ベルリン中心部にある「トポグラフィー・オブ・テラー」という施設。ナチス時代にゲシュタポやSSなどの本部が置かれていた区画をいったん更地にして、これらの組織による非人道的行為を批判的に展示しています。こうした施設を見れば見るほど、日本との「歴史との向き合い方の違い」を痛感させられます。

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ベルリン近郊にあるヴァンゼー会議の開かれた邸宅。ナチスのユダヤ人迫害は一足飛びにホロコーストに進んだわけでなく、いくつかの段階を経ていましたが、1942年のヴァンゼー会議は優先政策としての「絶滅」へと転換する重要な出来事でした。ここで重要な役割を演じたのが、ラインハルト・ハイドリヒとアドルフ・アイヒマン。

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ポツダム会談が開かれた、ポツダムのツェツィリエンホーフ宮殿。スターリンとトルーマン、チャーチル(途中でアトリーと交代)の三巨頭が会談を行った会議場は、今も当時のままの円卓と椅子が保存されています。とても落ち着いた環境の場所でした。

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ベルリン南部のツォッセン近郊、ヴュンスドルフにある、ドイツ陸軍の司令部施設「マイバッハ」の残骸。司令部や通信所を地下トンネルで繋いだ施設群で、今もロケットのような形状の防空シェルターや、崩落した施設のガレキが残っています。

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ドイツ南東部の古都ドレスデン。古い建物が並んでいるように見えますが、実はこの都市は第二次大戦終了間際の1945年にイギリス空軍が実施した無差別爆撃によって破壊され、教会を含む美しい建造物は無残なガレキの山と化しました。戦後に再建され、現在は歴史を感じさせる街として多くの観光客が訪れています。

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ドレスデンからチェコ領に入り、同国がドイツの保護領となっていた第二次大戦期に「テレージエンシュタット」と呼ばれたテレジーンを見学。ここは、ユダヤ人ゲットーとゲシュタポの刑務所、移送中のユダヤ人を一時収容する強制収容所などがあり、各施設はほとんど手を加えず当時のまま保存されています。

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バイエルン北部の都市ニュルンベルクは、戦前にはナチスの党大会が行われた場所で、今も当時の遺構が残っています。これは大規模会場の一つ、ツェッペリン広場の観閲台で、当時は両脇にも柱が林立する勇壮な建造物でした。戦前戦中は観閲台上部にカギ十字が付いていましたが、占領した米軍が爆破しました。

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ツェッペリン広場から、西に1.3kmほどの場所にある公園。当時は「ルイトポルトアリーナ」という式典場で、見る者を圧倒するようなナチス党大会での兵士の整列はここで行われました。当時の建造物はほとんど取り壊され、唯一残るのは「戦没者記念堂(エーレンハレ)」という小さい廟ですが、きちんと手入れされておらず、周囲にゴミが散乱しているのに驚きました。

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ドイツのニュルンベルクから、車で南東に2時間40分ほど走り、オーストリアとの国境を越えてすぐのブラウナウ(・アム・イン)という街にある、ヒトラーの生家。一時、取り壊しが決定されましたが、社会福祉関係の用途で存続することに。周囲の街並みは綺麗ですが、この建物だけは一階部分が薄汚れた感じになっています。

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オーストリアのブラウナウの南東、つまりザルツブルクの東部一帯に広がる山と湖の連なる地域は「ザルツカンマーグート」と呼ばれていますが、その一帯にある、アルタウッセの岩塩坑。『歴史群像』誌第145号の記事でも触れたように、ここはヒトラーが自分の美術館用にコレクションしていた美術品を第二次大戦末期に秘匿していた場所で、現在ウィーンの美術史美術館にあるフェルメールの「絵画芸術」もその一つでした。事前にネットで予約しておけば、内部を見学できます。小さいトロッコが一台走る狭いトンネルを、延々と歩いて山の奥へ入っていきます。

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ベルヒテスガーデンは、オーストリアのザルツブルクから南西に車で一時間足らずの場所にあるドイツ南東部の高原の街ですが、その東方、オーバーザルツベルクと呼ばれる一帯の山に、かつてヒトラーが愛用した山荘(ベルクホーフ)の遺構があります。戦後、この場所がナチス支持者の聖地となることを避けるため、山荘の建物は解体されましたが、土台のコンクリートは今も残っています。雑木林の中にあり、やや見つけにくい場所。すぐ近くには「オーバーザルツベルク現代史研究所」という、ヒトラーとナチス(国家社会主義)時代を批判的に検証する小さな博物館もあります。

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ミュンヘン新市庁舎の少し北にある、将軍廟(フェルトヘルンハレ)。バイエルンの名将を祀る廟として19世紀に作られましたが、ナチス時代には死亡したナチ活動家の慰霊碑が追加され、横を通る市民にも敬礼が強制されました。ある種、靖国神社的な場所だったと言えますが、敗戦と共にナチスの価値観に基づく慰霊碑等は全部撤去されました。

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おそらく日本で一番有名な南ドイツの観光名所・ノイシュヴァンシュタイン城。バイエルンの若き国王が道楽で建てたかのようなイメージがありますが、当時のバイエルン王国が置かれた境遇を知れば、もう少し複雑な構図も見えてきます。第二次大戦末期には、ここにもナチスの所有する大量の美術品が秘匿されました。

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ミュンヘン西方約50キロのランツベルクにある、ランツベルク刑務所。1923年のミュンヘン一揆が失敗した後、ヒトラーはここに収監され、『わが闘争』の口述筆記もここで行われました。現在も刑務所として使用されています。

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今回のドイツ・チェコ・オーストリア旅行では、三日目からレンタカーを借りて移動しました。今回の相棒はホンダのシビック。私の年代ではコンパクトな大衆車のイメージがある車名ですが、今どきのシビックはこんなにスポーティーで速くて、ベルリンからミュンヘン空港までの2000キロを快適に走破してくれました。アウトバーンでは、空いていると150〜170kmで巡航でき、この旅での最高速度は190kmでした。

ということで、非常に密度の濃い、10泊12日の充実した旅行でした。旅先で学んだこと、考えたことは、今後のいろいろな仕事に活かしていけたらと思います。

来月は、朝日文庫から『[増補版]戦前回帰』が発売される予定です。これは、三年前に学研から刊行した『戦前回帰』の四章に加え、この三年間で起きた出来事の中から「伊勢志摩サミットと政教分離」「天皇の生前退位」「教育勅語の教育現場への復活容認」などを取り上げた第五章を加筆しました。こちらも、発売日が決まり次第、改めて内容などを告知します。


【おまけ】
現代史関係の重い場所ばかりを連日見て回った旅でしたが、それだけでは精神が持たないということもあり、合間に二つの楽しみを挟みました。

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一つは、フェルメールをはじめとする美術品の鑑賞で、ベルリンとドレスデンの絵画館で名画の数々を堪能しました。

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特にドレスデンには、第二次大戦後の一時期ソ連に持って行かれたフェルメールとラファエロがありますが、ヴェネチアの画家カナレットの甥であるベルナルド・ベロットのコレクションが充実していたのも予想外の収穫でした。

もう一つは、ビールと地元料理で、今回のルートにはチェコ西部のプルゼニ(ピルゼン)とドイツ南部のミュンヘンという、ビール好きの二大聖地を含めたこともあり、本場のビールをたっぷり味わいました。

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ピルゼンは、ピルスナーの発祥地で、代表的なブランドは「ピルスナー・ウルケル」。ハーブ入りバターを載せたポークステーキも絶品でした。

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ドイツ南部、かつてのバイエルン王国の首都ミュンヘンは、白ビールの本場で、旅行中は時間とお金を節約するためレストラン以外で食事を済ませることが多かったですが、ここでは話が別。滞在二日目の晩に、電車でミュンヘン中心部にある白ビールの有名ブランド・フランツィスカーナー直営店で、シュヴァイネハクセ(豚のスネ肉のロースト)と一緒にいただきました。

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こちらは滞在最終日の夕食。ベルリンからミュンヘンまで、あちこち巡った旅の最後がランツベルク刑務所というのは哀しいので、いったんホテルに車を置き、再度ミュンヘン中心部へ。同じく白ビールの有名ブランド・パウラーナー直営店で白ビールと白アスパラ(ドイツの春の風物詩)のスープ、シュヴァイネブラーテン(豚ロースト)を堪能しました。
 
 
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