2019年12月31日 [その他(戦史研究関係)]
今月も、新刊が出ました。単行本『東西冷戦史(一) 二つに分断された世界』(アルタープレス)がそれで、1945年の国連創設と1948年のベルリン封鎖から、20世紀後半の世界を文字通り分断した「東西冷戦」を、政治と軍事の両面から読み解きます。今回の(一)では、朝鮮戦争とインドシナ半島の戦乱に光を当てます。
この本は、過去に雑誌「歴史群像」に寄稿した原稿の中から、テーマごとに抽出して加筆修正する「戦史・紛争史叢書」というシリーズの第一巻で、共通の執筆意図について書いた「はじめに」の一部を以下に再録します。
戦争や紛争は常に、新たな形態で発生し、特に軍事面では過去の戦訓が役立たないことも多い。隣国ドイツからの侵入を防ぐ目的で、第一次世界大戦の戦訓に基づいて構築されたフランスの大要塞「マジノ線」が、戦車や航空機の発達で完全な「役立たず」となっていることに気づかれず、二〇年後に勃発した第二次世界大戦ではドイツの電撃的な侵攻をまったく防げなかったのも、そうした教訓の典型的な一例と言える。
その一方で、戦争や紛争に至る「前段階」の政治的変化や国家間の対立がエスカレートするプロセスに目を向けると、軍事技術の変化とは別の次元で、過去から現在まで共通するパターンも数多く読み取ることができる。
いったん戦争や紛争が始まってしまえば、主に「軍事」の出番となるが、その発生回避という段階では、さまざまな政治面の相互誤解や感情的な言動の応酬、国家指導部の面子や威信への固執など、昔も今も変わらない人間的要素と「理性の限界」が、その後の展開を大きく左右する。従って、戦争や紛争の勃発を回避するためには、その前段階にこそ目を向け、何が指導者や国民を狂わせるのかを理解しておく必要がある。
私の原稿を読まれた方には説明不要かもしれませんが、私は戦争や紛争についての分析原稿を書く時、その経過だけでなく、発生原因を含む「前史」にも重点を置いています。この本では、日本の敗戦に前後して進められた「国連=国際連合(United Nations、より原語に忠実な訳語は『連合国』)」の創設から、1948年のベルリン封鎖、1950年〜53年の朝鮮戦争、1946年〜54年のインドシナ戦争(フランス植民地からのベトナム独立戦争)、1965年〜75年のベトナム戦争、それに前後して隣国のラオスとカンボジアで発生した紛争について、東西冷戦という国際的な枠組みの形成と米ソ超大国の「代理戦争」という側面、そして個々の地域や民族、国家に起因する固有の事情に光を当てながら、全体像と発生原因、共通点を俯瞰的に読み解いています。
東西冷戦の終結後に生まれた世代が社会に増えた今、冷戦時代の戦争や紛争も次第に風化しつつあるように見えますが、しかし個々の戦争や紛争に目を向ければ、そこに存在する力学や国民煽動の手法などは、今の世界で今なお生き続けていることがわかります。冷戦時代の「世界の分断」について、改めて「おさらい」できる一冊として、活用していただければ幸いです。
次に、12月6日発売の集英社の季刊誌「kotoba」2020年冬号に、私のインタビュー記事(6ページ)が掲載されました。
取材を受けたのは8月で、あいちトリエンナーレの展示中止とその背景にある歴史修正主義の思想、差別や憎悪を煽る言説が社会に及ぼす害毒、デマやフェイクを見破る方法などについて語りました。
また、12月13日に平川克美さんと隣町珈琲で収録した「ラジオデイズ」の対談音源が、リリースされました。対談のテーマは、現在の日本における時事問題で、日本の若者の話もいろいろしましたが、若者を批判するという文脈では(もちろん)ありません。
山崎雅弘×平川克美「権力に抗えないメディアと不安な若者」
それから、今日の毎日新聞のネット記事に、私のコメントが紹介されています。
この1年を「日本が世界の真ん中で輝いた」と表現する安倍首相の世界観とは
以下は、私のコメントの抜粋です。
「『無意識なのかもしれませんが、図らずも安倍首相の頭の中にある『優先順位』を可視化しました』と、戦史・紛争史研究家の山崎雅弘さんは指摘する」
「『世界の真ん中で日本が輝く』という概念は、米国のトランプ大統領のような『自国中心主義』と同じように捉えられるかもしれませんが、それは違うと思います。首相は今回、米大統領来日、G20、即位礼正殿の儀、ラグビー・ワールドカップに言及していますが、すべて外国からの来客のことばかりで、自国民について全く触れていないのです。自国民の現状に関心がない」
「一過性のイベントの成果ばかりを自慢し、苦しんでいる自国の被災者は眼中にない、と批判されても仕方ない」
「そもそも『世界の真ん中で輝く国』なんて現実の世界には存在しません。情緒的な宣伝用の言葉なのです。現実離れした幻想を国民に抱かせ、政府の失敗や不都合な現実から目をそらす。その姿勢は、太平洋戦争の後半、戦況悪化という事実を覆い隠した戦争指導者たちの言動を連想させます」
さて、2019年も今日と明日で終わりです。今年は本を4冊上梓し、『歴史戦と思想戦』(集英社新書)は各方面で大きな反響を呼んで、六刷のベストセラーになりました。買って下さった方、ありがとうございました。来年執筆する予定の何冊かの本について、資料収集と内容構成の練り込みをすでに始めています。
また、雑誌記事執筆や講演イベント、メディア取材などの言論活動も、幅広い形で行い、多くの方と新たに知遇を得ることができました。2020年も、さまざまな分野の仕事や活動でベストを尽くす所存です。来年も、よろしくお願いいたします。
それでは、皆様も良いお年を!
【おまけ】
2008年にデザインして個人出版した歴史ボードゲーム「モスクワ攻防戦」の英語版「ラスト・スタンド」が、来年初めにアメリカのMMP社から出版予定。テーマは第二次世界大戦のモスクワ攻防戦(雑誌「歴史群像」の付録になったものとは別のフルサイズのゲーム)。
これ以外にも、アメリカのコンパス・ゲームズから新作「フォー・マザーランド!」英語版が、中国のメーカーから「ウォー・フォー・ザ・マザーランド」(シックス・アングルズ第9号版)中国語版が、それぞれ出版される予定です。
2019年10月31日 [その他(戦史研究関係)]
まずは告知から。『歴史戦と思想戦』(集英社新書)のさらなる増刷が決定しました。これで六刷、三万部です。買って下さった皆様、ありがとうございます。
『歴史戦と思想戦』に関連する形で催された、今年6月の大阪・隆祥館書店での内田樹さんとの対談と、今月10日の東京・神楽坂モノガタリでの望月衣塑子さんとの対談は、近いうちに集英社のネット媒体で記事化される予定です。
東京新聞記者として活躍されている望月衣塑子さんとの対談イベントは、早々にチケットが完売し、何人かの友人知人から「行けなくて残念」との声を聞きましたが、盛況のうちに終わりました。その前後の時間には、驚くような裏話もいろいろお聞きでき、大変楽しく充実した時間でした。
また、今月1日に大阪・ロフトプラスワン・ウエストで催された、『TRICK』著者の加藤直樹さんとのトークイベントも、幅広い話題で盛り上がりました。想定以上に話の幅が広がり、韓国映画の話では危うく「工作」のネタばらしをしそうになって加藤さんに止められました。
さて、今月5日から7日まで、台湾に行ってきました。11月と12月に出る本(後述)の校正や地図制作などの仕事が詰まっていることもあり、二泊三日という短期のステイでしたが、ゲーム関係の仕事で知り合った台湾人の友人たちが、台北市内と猫空、新竹、日本統治時代に作られた古い製茶工場などに連れて行ってくれ、気分をリフレッシュできました。
また、今月21日から24日には鹿児島へ旅行してきました。前から興味があった特攻隊の出撃基地三か所(知覧、万世、鹿屋)を見学するのがメインの用事でしたが、歴史ボードゲームの個人出版「シックス・アングルズ」の印刷や製本を20年近く前からお願いしている鹿児島の印刷屋さんにご挨拶し、枕崎のカツオなどの地元料理もたっぷり堪能しました。
知覧の特攻平和会館。鹿児島訪問は今回が初めてで、特に特攻に関する原稿を書く予定はなかったのですが、3つの博物館の説明すべてに共通する「受け手の心理を誘導するトリック」に強烈な違和感を覚え、来年書く予定の本の内容とも重なることが判明したので、その本の中で書くことにしました。そのトリックとは、「特攻の延長線上に戦後の平和と繁栄がある」という説明のことで、受け手の心情を揺さぶる一方、歴史的事実には反する情緒的な現実解釈です。
このトリックを「トリックだ」と認識できなければ、何度でも同じことが繰り返される可能性がありますが、特攻で死んだ若者がそれを望むとは思えません。上の写真の特攻兵は、17歳と18歳。現代の日本に生まれていたなら、高校野球や高校サッカーをしている年齢です。何らかの大義名分を信じて出撃したとしても、それは人生経験に基づく確信ではあり得ないでしょう。
知覧特攻平和会館から1.6キロほど北北東にある富屋食堂。戦時中は軍の指定食堂で、経営者の鳥浜トメさんは、特攻出撃で命を失った若い日本兵を息子のように面倒を見て、兵士からも母親のように慕われました。その日本兵の中には朝鮮の出身者もいました。今は一階と二階が特攻関連の展示室になっています。
万世の特攻平和祈念館。特攻関連の博物館では、特攻の原因を「戦争」という漠然とした一般論に求め、戦争はしてはなりませんと説明しますが、では誰がどんな経緯でその「戦争」を始めたかには全然触れません。また、特攻で死んだ若者に涙を流す人は多いですが、彼らを死なせたのは「戦争」ではありません。もし「戦争」が特攻の原因なら、第二次大戦に参戦した国の多くが、同じような「体当たり攻撃」をしていないとおかしいですが、実際には組織的に「体当たり攻撃」を繰り返し自国の兵士に行わせたのは、大日本帝国ただ一国でした。
鹿屋の航空基地史料館にある特攻関連展示。近くには、体当たり用に設計された人間爆弾「桜花」の記念碑や、公園の高台に立つ特攻戦没者の慰霊碑があります。
鹿児島南部の薩摩半島・指宿から大隅半島・根占に渡るフェリーの根占側の港のそばに、小型ボートで体当たり攻撃をした「海上挺進戦隊」の記念碑があります。
鹿児島で買った本。特攻については『戦前回帰』で少し触れましたが、やはりあれだけでは不十分だと痛感しました。大勢の観光客で溢れた知覧とは対照的に、万世の特攻平和祈念館はほとんど貸し切り状態だったので、遺書などの展示物と遺影を計三回見て、来年書く本でどこに光をあてるべきかを、ソファで考えました。
鹿児島からの帰りは、飛行機でなく新幹線を選択(西の新幹線は普通車でも二席二席でゆったりして快適)し、下関で途中下車して唐戸市場の近くで昼食を食べました(ふぐの刺身など)。
下関にある日清講和記念館。春帆楼という割烹旅館の一室で1895年に行われた日清戦争の講和会議(下関条約)を、同地の敷地内で再現したミニ博物館で、本館は空襲で消失して戦後に再建されたが、1937年に建てられた記念館は無事でした。机や椅子は、伊藤博文や陸奥宗光、李鴻章らが使用したもの。
さて、来月は朝日新書から新刊『中国共産党と人民解放軍』が刊行されます。20世紀初頭の中国共産党と工農紅軍(のちの中国人民解放軍)創設から現代までの、表題の2つの組織の足跡を追う内容で、二度にわたる国民党との内戦と、第二次大戦中の抗日戦争、台湾との争い、朝鮮戦争への「義勇軍」名目での軍事介入、ソ連やインドとの国境紛争、チベット問題と新疆ウイグル問題、文化大革命、中越戦争、天安門事件、尖閣諸島問題、南沙諸島問題、中国人民解放軍の組織と編制の変遷などを扱っています。この本の詳しい内容については、次回の更新でご紹介します。
また、12月には単行本『二つに分断された世界』(アルタープレス)が刊行されます。こちらは、副題の「東西冷戦史(一)」が示すように、20世紀後半の東西冷戦体制の始まりとアジアにおける東西冷戦の代理戦争を、政治や軍事、民族などの視点で読み解く内容です。各章では、国連の創設、ベルリン封鎖(1948年)、朝鮮戦争、インドシナ戦争、ベトナム戦争、ラオス・カンボジア紛争をカバーします。この単行本は、「戦史・紛争史叢書」というシリーズの第一巻で、第二巻は『終わらない中東の戦乱(仮)』、第三巻は『東西冷戦史(二) 憎しみの壁の崩壊(仮)』となる予定です。
【おまけ】
台湾でいただいた美味いもの。羊の鍋、新竹のビーフン、モツの酢煮込み、その他。やっぱり台湾の食は外れなしです(唯一の例外は臭豆腐)。
鹿児島でいただいた美味いもの。特に印象に残ったのは、枕崎で食べたカツオ料理でした。ぶえん鰹の刺身は、一本釣りした直後に急速冷凍したもので、想像を超える旨さ。鰹の頭(ビンタ)も結構サイズが大きくて、解体しながら鰹の香りが濃厚な身を味わいました。三重県も海の幸が豊富な県ですが、この絶品のカツオ料理はやはり産地に行かないと味わえません。
地元産の豚肉を使用したとんかつは、指宿と鹿屋で2回食しました。
鹿児島の印刷会社の人に「お薦めの名物料理は何ですか?」と聞いたら、鳥刺しという答えが返ってきましたが、確かに歯ごたえと味わいが絶品でした。
九州名物のとんこつラーメン。いずれまた鹿児島に行きたいです。
2019年9月30日 [その他(戦史研究関係)]
8月は結局ブログを更新しそびれてしまいましたが、気がつくと9月も最終日になっていました。まずはこの間の仕事などの告知です。
まず、「歴史群像」最新号(第157号)が9月初めに発売されました。今回の担当記事は「オランダとベルギーの第二次大戦」で、英仏独という三大国の狭間で翻弄され、望まずして第二次大戦に巻き込まれた両国の足跡を追っています。米中露の三大国の狭間にいる現在の日本と南北朝鮮も、パワーゲームではこれと近いポジションにいるという側面があります。
オランダとベルギーは、第二次大戦史の記述では「とりあえずイギリスとフランスの側」として簡単に流されることが多いですが、それぞれ固有の政治的・軍事的問題を抱えて苦労していました。蘭印(オランダ領東インド、現インドネシア)の話やSS義勇兵の話なども書いています。そして、両国の太平洋戦争との関係も。オランダは「蘭印」が日本軍と戦いましたがベルギーは? 実は、ある兵器の開発に関連して、ベルギーが重要な役割を果たしていたのでした。
それから、5月に刊行された『歴史戦と思想戦』(集英社新書)ですが、その後何度か増刷を重ね、現在までに五刷で累計2万5000部となりました。五刷では帯も一新され、内田樹さん、望月衣塑子さん、鴻上尚史さん、想田和弘さんのご推薦文が入りました。あいちトリエンナーレ事件の読み解きにも活用していただければ幸いです。
この本の中で指摘したトリックや価値観を踏まえれば、今の日本社会のあちこちで起こる一見別々に見える出来事が、実は根底で同じ水脈に繋がっていることがわかると思います。
8月の上京時は、平川克美さんの隣町珈琲にもお邪魔しました。そして、日本に一時帰国されていた想田和弘さんと「ラジオデイズ」の収録を行いました。
話題の中心は、7月の参院選でのれいわ新選組の躍進についての分析を軸に、野党側から見た現在の日本の政治状況でした。立憲民主党と枝野さんについても、平川さん・想田さんが少し引かれるくらい率直に意見を述べましたが、今でも応援しているからこその言葉です。他の話題も濃密で、とてもエキサイティングな時間でした。ぜひ御一聴を!
ラジオデイズ特別鼎談 「れいわ」の民主主義
また、シンガポールのニュースTV局の番組「INSIGHT」8月30日放送回で、私のインタビューが少し使われました。
テーマは「日本の再軍備」で、憲法学者の長谷部恭男さんや石破茂議員、元日本軍人を含む戦争経験者などの言葉を紹介しながら、安倍首相の軍備増強政策を読み解く内容です。
先日東京某所で収録したインタビューは1時間くらいで、日本会議と安倍政権の関係なども話しましたが、私が特に重要と思う部分(日本国憲法の制定にどんな意図が込められていたのか)の発言を使ってもらえたので、特に不満はありません。安倍首相がなぜあれほど憲法変更に前のめりなのか、という理由は、もちろん党の悲願云々ではなく、戦前の精神文化に回帰する上で日本国憲法が最大の障害物だからです。下のリンク先で観られる、約48分の英語プログラムです(私のインタビューは日本語に英文字幕)。
Ep 18: Rearming Japan
さて、ここからは告知です。明日の10月1日は、大阪の「ロフト・プラスワン・ウエスト」で『TRICK』著者の加藤直樹さんとのトークイベントがあります。こちらは、いわゆる「歴史修正主義」に関する話がメインで、『歴史戦と思想戦』で「歴史修正主義」という言葉を極力使わなかった理由や、本の最後を「歴史戦という手法の全否定」にしなかった理由も語ります。
登壇者もお酒を飲めるイベントは初めてですが、話がどんな方向に展開するのか、私も楽しみです。
ダブル出版記念! 歴史戦と思想戦のTRICK
また、10月10日(来週木曜日)には、東京・神楽坂の書店「神楽坂モノガタリ」で、ジャーナリスト(東京新聞記者)の望月衣塑子さんとイベントをやります。既にお気づきの方も多い様子ですが、私が『歴史戦と思想戦』で紹介した論理のトリックは、実は安倍政権下の政治問題でもよく使われています。この東京のイベントでは、後者に重点を置いて語る予定です。
歴史と政治のトリックを『論理』で見破ろう
来月は、11月に朝日新書から刊行される新刊『中国共産党と人民解放軍』の校正および地図制作と、12月に別の出版社から刊行される単行本(タイトル未定)の校正および地図制作を中心に、他の仕事も並行して進めます。今年も残り3か月となりましたが、
【おまけ】
9月28日、大阪谷六のビストロ「ギャロ」で、ラグビーW杯日本対アイルランド戦のパブリックビュー会に参加しました。ビールとワインと美味しい料理を味わいつつ、そして熱いラグビーファン諸氏の的確なコメントを聞きつつ観戦しましたが、まさか日本がアイルランドに勝つとは。
皆さんおめでとう! ルールや戦術も少しずつわかってきました。
まず、「歴史群像」最新号(第157号)が9月初めに発売されました。今回の担当記事は「オランダとベルギーの第二次大戦」で、英仏独という三大国の狭間で翻弄され、望まずして第二次大戦に巻き込まれた両国の足跡を追っています。米中露の三大国の狭間にいる現在の日本と南北朝鮮も、パワーゲームではこれと近いポジションにいるという側面があります。
オランダとベルギーは、第二次大戦史の記述では「とりあえずイギリスとフランスの側」として簡単に流されることが多いですが、それぞれ固有の政治的・軍事的問題を抱えて苦労していました。蘭印(オランダ領東インド、現インドネシア)の話やSS義勇兵の話なども書いています。そして、両国の太平洋戦争との関係も。オランダは「蘭印」が日本軍と戦いましたがベルギーは? 実は、ある兵器の開発に関連して、ベルギーが重要な役割を果たしていたのでした。
それから、5月に刊行された『歴史戦と思想戦』(集英社新書)ですが、その後何度か増刷を重ね、現在までに五刷で累計2万5000部となりました。五刷では帯も一新され、内田樹さん、望月衣塑子さん、鴻上尚史さん、想田和弘さんのご推薦文が入りました。あいちトリエンナーレ事件の読み解きにも活用していただければ幸いです。
この本の中で指摘したトリックや価値観を踏まえれば、今の日本社会のあちこちで起こる一見別々に見える出来事が、実は根底で同じ水脈に繋がっていることがわかると思います。
8月の上京時は、平川克美さんの隣町珈琲にもお邪魔しました。そして、日本に一時帰国されていた想田和弘さんと「ラジオデイズ」の収録を行いました。
話題の中心は、7月の参院選でのれいわ新選組の躍進についての分析を軸に、野党側から見た現在の日本の政治状況でした。立憲民主党と枝野さんについても、平川さん・想田さんが少し引かれるくらい率直に意見を述べましたが、今でも応援しているからこその言葉です。他の話題も濃密で、とてもエキサイティングな時間でした。ぜひ御一聴を!
ラジオデイズ特別鼎談 「れいわ」の民主主義
また、シンガポールのニュースTV局の番組「INSIGHT」8月30日放送回で、私のインタビューが少し使われました。
テーマは「日本の再軍備」で、憲法学者の長谷部恭男さんや石破茂議員、元日本軍人を含む戦争経験者などの言葉を紹介しながら、安倍首相の軍備増強政策を読み解く内容です。
先日東京某所で収録したインタビューは1時間くらいで、日本会議と安倍政権の関係なども話しましたが、私が特に重要と思う部分(日本国憲法の制定にどんな意図が込められていたのか)の発言を使ってもらえたので、特に不満はありません。安倍首相がなぜあれほど憲法変更に前のめりなのか、という理由は、もちろん党の悲願云々ではなく、戦前の精神文化に回帰する上で日本国憲法が最大の障害物だからです。下のリンク先で観られる、約48分の英語プログラムです(私のインタビューは日本語に英文字幕)。
Ep 18: Rearming Japan
さて、ここからは告知です。明日の10月1日は、大阪の「ロフト・プラスワン・ウエスト」で『TRICK』著者の加藤直樹さんとのトークイベントがあります。こちらは、いわゆる「歴史修正主義」に関する話がメインで、『歴史戦と思想戦』で「歴史修正主義」という言葉を極力使わなかった理由や、本の最後を「歴史戦という手法の全否定」にしなかった理由も語ります。
登壇者もお酒を飲めるイベントは初めてですが、話がどんな方向に展開するのか、私も楽しみです。
ダブル出版記念! 歴史戦と思想戦のTRICK
また、10月10日(来週木曜日)には、東京・神楽坂の書店「神楽坂モノガタリ」で、ジャーナリスト(東京新聞記者)の望月衣塑子さんとイベントをやります。既にお気づきの方も多い様子ですが、私が『歴史戦と思想戦』で紹介した論理のトリックは、実は安倍政権下の政治問題でもよく使われています。この東京のイベントでは、後者に重点を置いて語る予定です。
歴史と政治のトリックを『論理』で見破ろう
来月は、11月に朝日新書から刊行される新刊『中国共産党と人民解放軍』の校正および地図制作と、12月に別の出版社から刊行される単行本(タイトル未定)の校正および地図制作を中心に、他の仕事も並行して進めます。今年も残り3か月となりましたが、
【おまけ】
9月28日、大阪谷六のビストロ「ギャロ」で、ラグビーW杯日本対アイルランド戦のパブリックビュー会に参加しました。ビールとワインと美味しい料理を味わいつつ、そして熱いラグビーファン諸氏の的確なコメントを聞きつつ観戦しましたが、まさか日本がアイルランドに勝つとは。
皆さんおめでとう! ルールや戦術も少しずつわかってきました。
2019年7月5日 [その他(戦史研究関係)]
先月に続いて、今月も新刊の告知から。6月25日に、単行本『沈黙の子どもたち』が晶文社より発売されました。
この本のテーマは、第二次世界大戦期における、軍(またはそれに準ずる組織)による市民の大量殺害です。実質的に同大戦の前哨戦であったスペイン内戦と日中戦争も含み、ゲルニカ、上海・南京、アウシュヴィッツ、シンガポール、リディツェ、沖縄、広島・長崎の計七章と最終章(戦後の反省)から成ります。
上に挙げた地名の多くは、歴史的によく知られていると思いますが、本書はそれらの場所での市民の大量殺害がなぜ起きたか、その原因と構造を「実行した側の『合理性』」から読み解こうとする試みです。それに加えて、個々の大量殺害を引き起こす直接的な動機となった「命令への絶対服従」という組織内の規範について、戦後のドイツと日本が違った対処法をしている事実についても終章で光を当てています。
ドイツ連邦軍は過去の反省から「命令への絶対服従」に留保を付けた。では日本は? 大日本帝国時代の反省は制度に存在するか? 戦争という怪物の実相を理解する一助として、本書を活用していただければ幸いです。
その2日後の6月27日付毎日新聞夕刊に、先日上京した際に受けた『歴史戦と思想戦』(集英社新書)の著者インタビューが掲載されました。ネット版もありますが、会員限定のようです。記事のタイトルには「出版文化の健全さに訴え 『歴史戦と思想戦』で修正主義に一石」とあります。
聞き手の栗原俊雄さんは、毎日新聞記者であるのと同時に『特攻 戦争と日本人』などの著作を持つ昭和史の研究家でもあり、同い年ということもあって様々な歴史上の論点について意見交換できました。
7月1日発売の雑誌「ZAITEN」(財界展望新社)にも、『歴史戦と思想戦』を主題とする2ページの著者インタビュー記事が掲載されています。
内容は、同書の執筆動機や、いわゆる「歴史修正主義」の思考形態をどう理解し、どのように対処すべきか等で、見城徹氏と幻冬舎、百田尚樹氏を扱った巻頭特集の内容ともリンクしています。
雑誌「週刊金曜日」の6月14日号には、「新時代という虚構」という企画の第三回として「消えた『ニュースと政治プロパガンダの境界』」という2ページの記事を寄稿しました。
特定の政治権力者による「宣伝(プロパガンダ)」にすぎない内容を、「ニュース」という体裁をとって国民の耳目に触れさせる手法が、最近の日本で増えているように思います。
また、今日(7月5日)の朝日新聞朝刊にも、先日自宅で受けたインタビューの内容が「耕論」という企画の中で掲載されました。
昨今の日本(および世界)で広がりつつある権威主義についての話がメインですが、国会議員だけでなく市民もそれと自覚しないまま、服従的な思考形態に適応しつつあるのは危険な兆候だと思います。
私はいつも著作やSNSで権威主義を批判しているので、あらゆる権威を否定する「反権威主義者」のように思われているかもしれませんが、各分野の権威には一定の敬意を払っています。私が危ないと思うのは、特定権威の過剰な称揚と判断停止、権威を道具にした威圧や恫喝、権威への無条件服従などの心理です。
この単行本発売に前後して、私は一週間ほどアメリカに滞在していました。今回は、昨年に続いてアリゾナ州テンピで開催されたボードゲームのコンベンション「コンシムワールド・エクスポ2019」に参加し、米国コンパス・ゲームズ社から発売予定の新作ゲーム『For Motherland !』のプレイテストを会場で行いました。
テストを担当してくれたアメリカ人ゲーマーの1人は、旧版の『War for the Motherland』をプレイした経験もあるベテランで、共通する基本システムをすでに理解されていたので、英語でルール等を説明する際の負担がだいぶ軽減されました。
ナポレオニック・ゲームの伝説的デザイナーであるケヴィン・ザッカー氏とも久しぶりに再会(20年くらい?)。私は前に、彼のゲーム出版社(OSG: Operational Studies Group)のためにグラフィックの仕事を何度かしたことがあり、シミュレーション・ゲーム業界における彼の功績を深く尊敬しています。
また、アリゾナへの行きと帰りにサンフランシスコに立ち寄り、いくつかの場所を見学しました。
サンフランシスコ市内にあるオペラハウスの建物。朝鮮戦争が二年目に入った1951年9月8日、日本と主要連合国の間で先の戦争の講和条約(通称サンフランシスコ講和条約)が署名されました。この日はオペラの上演日だったので内部は見られませんでしたが、脇の車寄せから入る着飾った人々の姿から当時の光景を想像しました。
オペラハウスからタクシーで15分くらいの場所にある、米陸軍プレシディオ基地内のゴールデン・ゲート・クラブの建物。ここは昔「下士官クラブ」として使われ、サンフランシスコ講和条約締結後に吉田茂首相が米政府代表者との間で最初の「日米安保条約」に署名した場所です。こんな小さい施設で署名したのかと改めて驚かされました。ここが戦後の日米軍事同盟の出発点です。
サンフランシスコの名所、ゴールデン・ゲート・ブリッジ(金門橋)。出発前日に映画「007 美しき獲物たち」をBSで観て、ゾリンの飛行船が衝突した橋の上部を見るのを楽しみにしていたのですが、残念なことに同地名物の霧で上半分が隠されていました。たもとには橋の設計者ジョセフ・ストラウスの像が立ちます。遠くからだとわかりにくいですが、実はニューヨークのクライスラービルなどと同様、アールデコの装飾が橋のあちこちに施されています。
さて、今日(7月5日)は雑誌「歴史群像」最新号の発売日です。今回は、本誌記事「ドニエプル攻防戦 1943」の執筆に加え、付録ボードゲーム2つのデザイン・制作・グラフィックを担当しました。プレイを通じて指揮官の決断を重さを体感できる、2人用(第二段作戦)と1人用(マレー沖海戦)のボードゲームが、打ち抜き駒と共にパッケージされています。これらについては、次回の投稿で詳しく書きます。
アリゾナ州テンピのゲームコンベンション「コンシムワールド・エクスポ2019」で、「第二段作戦」をプレイする、アメリカ人のベテランゲーマー2人。
この本のテーマは、第二次世界大戦期における、軍(またはそれに準ずる組織)による市民の大量殺害です。実質的に同大戦の前哨戦であったスペイン内戦と日中戦争も含み、ゲルニカ、上海・南京、アウシュヴィッツ、シンガポール、リディツェ、沖縄、広島・長崎の計七章と最終章(戦後の反省)から成ります。
上に挙げた地名の多くは、歴史的によく知られていると思いますが、本書はそれらの場所での市民の大量殺害がなぜ起きたか、その原因と構造を「実行した側の『合理性』」から読み解こうとする試みです。それに加えて、個々の大量殺害を引き起こす直接的な動機となった「命令への絶対服従」という組織内の規範について、戦後のドイツと日本が違った対処法をしている事実についても終章で光を当てています。
ドイツ連邦軍は過去の反省から「命令への絶対服従」に留保を付けた。では日本は? 大日本帝国時代の反省は制度に存在するか? 戦争という怪物の実相を理解する一助として、本書を活用していただければ幸いです。
その2日後の6月27日付毎日新聞夕刊に、先日上京した際に受けた『歴史戦と思想戦』(集英社新書)の著者インタビューが掲載されました。ネット版もありますが、会員限定のようです。記事のタイトルには「出版文化の健全さに訴え 『歴史戦と思想戦』で修正主義に一石」とあります。
聞き手の栗原俊雄さんは、毎日新聞記者であるのと同時に『特攻 戦争と日本人』などの著作を持つ昭和史の研究家でもあり、同い年ということもあって様々な歴史上の論点について意見交換できました。
7月1日発売の雑誌「ZAITEN」(財界展望新社)にも、『歴史戦と思想戦』を主題とする2ページの著者インタビュー記事が掲載されています。
内容は、同書の執筆動機や、いわゆる「歴史修正主義」の思考形態をどう理解し、どのように対処すべきか等で、見城徹氏と幻冬舎、百田尚樹氏を扱った巻頭特集の内容ともリンクしています。
雑誌「週刊金曜日」の6月14日号には、「新時代という虚構」という企画の第三回として「消えた『ニュースと政治プロパガンダの境界』」という2ページの記事を寄稿しました。
特定の政治権力者による「宣伝(プロパガンダ)」にすぎない内容を、「ニュース」という体裁をとって国民の耳目に触れさせる手法が、最近の日本で増えているように思います。
また、今日(7月5日)の朝日新聞朝刊にも、先日自宅で受けたインタビューの内容が「耕論」という企画の中で掲載されました。
昨今の日本(および世界)で広がりつつある権威主義についての話がメインですが、国会議員だけでなく市民もそれと自覚しないまま、服従的な思考形態に適応しつつあるのは危険な兆候だと思います。
私はいつも著作やSNSで権威主義を批判しているので、あらゆる権威を否定する「反権威主義者」のように思われているかもしれませんが、各分野の権威には一定の敬意を払っています。私が危ないと思うのは、特定権威の過剰な称揚と判断停止、権威を道具にした威圧や恫喝、権威への無条件服従などの心理です。
この単行本発売に前後して、私は一週間ほどアメリカに滞在していました。今回は、昨年に続いてアリゾナ州テンピで開催されたボードゲームのコンベンション「コンシムワールド・エクスポ2019」に参加し、米国コンパス・ゲームズ社から発売予定の新作ゲーム『For Motherland !』のプレイテストを会場で行いました。
テストを担当してくれたアメリカ人ゲーマーの1人は、旧版の『War for the Motherland』をプレイした経験もあるベテランで、共通する基本システムをすでに理解されていたので、英語でルール等を説明する際の負担がだいぶ軽減されました。
ナポレオニック・ゲームの伝説的デザイナーであるケヴィン・ザッカー氏とも久しぶりに再会(20年くらい?)。私は前に、彼のゲーム出版社(OSG: Operational Studies Group)のためにグラフィックの仕事を何度かしたことがあり、シミュレーション・ゲーム業界における彼の功績を深く尊敬しています。
また、アリゾナへの行きと帰りにサンフランシスコに立ち寄り、いくつかの場所を見学しました。
サンフランシスコ市内にあるオペラハウスの建物。朝鮮戦争が二年目に入った1951年9月8日、日本と主要連合国の間で先の戦争の講和条約(通称サンフランシスコ講和条約)が署名されました。この日はオペラの上演日だったので内部は見られませんでしたが、脇の車寄せから入る着飾った人々の姿から当時の光景を想像しました。
オペラハウスからタクシーで15分くらいの場所にある、米陸軍プレシディオ基地内のゴールデン・ゲート・クラブの建物。ここは昔「下士官クラブ」として使われ、サンフランシスコ講和条約締結後に吉田茂首相が米政府代表者との間で最初の「日米安保条約」に署名した場所です。こんな小さい施設で署名したのかと改めて驚かされました。ここが戦後の日米軍事同盟の出発点です。
サンフランシスコの名所、ゴールデン・ゲート・ブリッジ(金門橋)。出発前日に映画「007 美しき獲物たち」をBSで観て、ゾリンの飛行船が衝突した橋の上部を見るのを楽しみにしていたのですが、残念なことに同地名物の霧で上半分が隠されていました。たもとには橋の設計者ジョセフ・ストラウスの像が立ちます。遠くからだとわかりにくいですが、実はニューヨークのクライスラービルなどと同様、アールデコの装飾が橋のあちこちに施されています。
さて、今日(7月5日)は雑誌「歴史群像」最新号の発売日です。今回は、本誌記事「ドニエプル攻防戦 1943」の執筆に加え、付録ボードゲーム2つのデザイン・制作・グラフィックを担当しました。プレイを通じて指揮官の決断を重さを体感できる、2人用(第二段作戦)と1人用(マレー沖海戦)のボードゲームが、打ち抜き駒と共にパッケージされています。これらについては、次回の投稿で詳しく書きます。
アリゾナ州テンピのゲームコンベンション「コンシムワールド・エクスポ2019」で、「第二段作戦」をプレイする、アメリカ人のベテランゲーマー2人。
2019年5月12日 [その他(戦史研究関係)]
まず告知です。『歴史群像』誌(学研)の最新号が刊行されました。
私の担当記事は、前号の続き「朝鮮戦争(後編)」です。1950年10月に中国が軍事介入した後の朝鮮戦争については、日本での知名度が比較的低い模様ですが、米国・韓国軍が中国・北朝鮮軍と戦場で激突した、過去に唯一の機会でした。今回も政治と軍事の両面から、朝鮮戦争の様相を読み解いています。
朝鮮半島情勢は、今なお予断を許さない状況ですが、北朝鮮と中国およびロシアの複雑な関係を理解する上で、朝鮮戦争における中国およびソ連の役割を知ることはプラスになるのでは、と思います。いまだ「休戦」状態に留まり、「終戦」に至っていない朝鮮戦争の全体像を俯瞰する一助として、『歴史群像』誌の前号と最新号に寄稿した記事を役立てていただければ幸いです。
『歴史群像』誌最新号の書籍等を紹介するページでは、「朝鮮戦争(後編)」をより深く理解するアイテムとして、韓国映画『高地戦』を紹介しました。これは非常によくできた作品で、戦争という社会現象が持つ普遍的な不条理と、朝鮮戦争という出来事に固有の不条理を、生々しくえぐり出して描くことに成功しています。背景に関する多少の予備知識がないと、意味がよくわからない部分がいくつかありますが(「貴方は彭徳懐の恐ろしさがわかっていない」という台詞など)、「朝鮮戦争(後編)」を読んだ後でご覧になれば、それらの疑問はほぼ解消するだろうと思います。
それから、7月発売の『歴史群像』次号では、また私のデザインする歴史ボードゲームが付録として付きます。
今回のテーマは、二人用が「第二段作戦」、一人用が「マレー沖海戦」です。指揮官の決断の重さや、重要局面でのリスク判断の難しさなども実感できる内容に仕上げるべく、鋭意制作中です。
ここに紹介している「第二段作戦」のグラフィックは、いずれも制作途中段階のもので、細部は製品版と異なる場合があります。
テストプレイ中の風景。ミッドウェー海戦(MI作戦)を行わずに、フィジー・サモア作戦(FS作戦)やポート・モレスビー作戦(MO作戦)を行っていたら、など、いろいろ試してみることができます。
1回のプレイ時間は、慣れれば30〜40分(今までの最短は25分)で、未確認マーカーを併用するシステムなので展開は毎回変わり、日米どちらが勝っても「もう一回やろう!」となるようなゲームに仕上がりつつあります。空母戦の解決も、どちらが先手を打つかで展開が変わり、奇襲の効果が生じれば、一撃で相手空母を轟沈、という逆転の展開も起こりえます。
二人用「第二段作戦」は、史実のような空母戦の緊迫感を演出しつつ、対戦相手が見つからない人が一人でもプレイできるよう、システムを工夫してあります。一般的な隠匿配置や秘匿移動のシステムは使っていないので、ソロプレイでも大丈夫です。一人用の「マレー沖海戦」と共に、今回もリプレイアビリティの高いゲームに仕上げます。ぜひご期待ください。
あと、今月17日に新刊『歴史戦と思想戦』(集英社新書)が発売されます。この本の内容については、次回の更新で詳しく説明します。こちらも、お楽しみに。
私の担当記事は、前号の続き「朝鮮戦争(後編)」です。1950年10月に中国が軍事介入した後の朝鮮戦争については、日本での知名度が比較的低い模様ですが、米国・韓国軍が中国・北朝鮮軍と戦場で激突した、過去に唯一の機会でした。今回も政治と軍事の両面から、朝鮮戦争の様相を読み解いています。
朝鮮半島情勢は、今なお予断を許さない状況ですが、北朝鮮と中国およびロシアの複雑な関係を理解する上で、朝鮮戦争における中国およびソ連の役割を知ることはプラスになるのでは、と思います。いまだ「休戦」状態に留まり、「終戦」に至っていない朝鮮戦争の全体像を俯瞰する一助として、『歴史群像』誌の前号と最新号に寄稿した記事を役立てていただければ幸いです。
『歴史群像』誌最新号の書籍等を紹介するページでは、「朝鮮戦争(後編)」をより深く理解するアイテムとして、韓国映画『高地戦』を紹介しました。これは非常によくできた作品で、戦争という社会現象が持つ普遍的な不条理と、朝鮮戦争という出来事に固有の不条理を、生々しくえぐり出して描くことに成功しています。背景に関する多少の予備知識がないと、意味がよくわからない部分がいくつかありますが(「貴方は彭徳懐の恐ろしさがわかっていない」という台詞など)、「朝鮮戦争(後編)」を読んだ後でご覧になれば、それらの疑問はほぼ解消するだろうと思います。
それから、7月発売の『歴史群像』次号では、また私のデザインする歴史ボードゲームが付録として付きます。
今回のテーマは、二人用が「第二段作戦」、一人用が「マレー沖海戦」です。指揮官の決断の重さや、重要局面でのリスク判断の難しさなども実感できる内容に仕上げるべく、鋭意制作中です。
ここに紹介している「第二段作戦」のグラフィックは、いずれも制作途中段階のもので、細部は製品版と異なる場合があります。
テストプレイ中の風景。ミッドウェー海戦(MI作戦)を行わずに、フィジー・サモア作戦(FS作戦)やポート・モレスビー作戦(MO作戦)を行っていたら、など、いろいろ試してみることができます。
1回のプレイ時間は、慣れれば30〜40分(今までの最短は25分)で、未確認マーカーを併用するシステムなので展開は毎回変わり、日米どちらが勝っても「もう一回やろう!」となるようなゲームに仕上がりつつあります。空母戦の解決も、どちらが先手を打つかで展開が変わり、奇襲の効果が生じれば、一撃で相手空母を轟沈、という逆転の展開も起こりえます。
二人用「第二段作戦」は、史実のような空母戦の緊迫感を演出しつつ、対戦相手が見つからない人が一人でもプレイできるよう、システムを工夫してあります。一般的な隠匿配置や秘匿移動のシステムは使っていないので、ソロプレイでも大丈夫です。一人用の「マレー沖海戦」と共に、今回もリプレイアビリティの高いゲームに仕上げます。ぜひご期待ください。
あと、今月17日に新刊『歴史戦と思想戦』(集英社新書)が発売されます。この本の内容については、次回の更新で詳しく説明します。こちらも、お楽しみに。
2019年4月22日 [その他(戦史研究関係)]
3月はまた忙しくて更新し損ない、4月もうかうかしていると終わってしまうそうなので、とりあえず更新です。
まず、3月発売の『歴史群像』(学研)に、巻頭特集記事として「朝鮮戦争《前編》」を寄稿しました。
1945年に大日本帝国が連合国に降伏した後、政治力の空白が生じた朝鮮半島がなぜ南北に分断され、どんな経緯で韓国と北朝鮮という二つの国家が生まれたのか。北朝鮮の金日成はなぜ、1950年に韓国への軍事侵攻を開始したのか。朝鮮戦争序盤の韓国軍と米軍は、なぜ大敗したのか。韓国を助ける「国連軍」が、いかなる経緯で創設され、国連安保理の常任理事国であるソ連や中国はなぜ拒否権を発動しなかったのか。今回の前編では、中国人民解放軍の介入までの朝鮮戦争を、政治と軍事(戦略と作戦)の両面から読み解きます。
昨年11月に韓国を旅行した際、北朝鮮との休戦ライン近くにも行きましたが、ある地点から先に行くと緊張感が俄然高まり、朝鮮戦争はまだ終わっていないのだと改めて感じました。
また、連休明けの5月7日に発売予定の『歴史群像』誌次号にも、「朝鮮戦争《後編》」を寄稿しています。1950年10月に中華人民共和国が朝鮮戦争に介入した経緯と、1953年の休戦成立までの「中国・北朝鮮対アメリカ・韓国・国連」の戦争の推移を、政治と軍事の両面から読み解きます。前後編を通しで読まれれば、知っているようで知らない人の多い、朝鮮戦争についての理解が深まるのではないか、と思います。
それから、シックス・アングルズ第14号の付録としてデザインし、個人出版したボード・シミュレーションゲーム『ベアズ・クロウ』の中国語版が、近いうちに中国の出版社から『赤熊之爪』というタイトルで出版される予定です。
テーマは、第二次世界大戦期の独ソ戦序盤における二つの戦い(スモレンスク攻防戦とキエフ=ウマーニ包囲戦)で、マップやユニット、チャートのグラフィックは、私のデザインしたオリジナル版のデータを基に、テキスト部分を日本語から中国語に置き換えたもので、マップの地名も英文と中文が表記されます。
以前に上海と南京を訪問した時、現地のゲーマーとも交流しましたが、全体的に年齢層が日本のゲーマーよりも若く、バイタリティに溢れている感じでした。他のタイトルの中国語版も交渉中です。
来月、新しい新書『歴史戦と思想戦』(集英社新書)が刊行予定ですが、それについては次回の更新で詳しく紹介する予定です。お楽しみに。さらに、次の単行本も既に原稿の校正が進み、収録する地図制作などを進めているところです。こちらも、発売が近づいたら改めて書名や内容をご紹介します。
【おまけ】
トップの写真と上の写真は、名張の桜です。4月19日に家の近所で撮影しました。庭の様子も、すっかり春らしくなりました。
2018年12月31日 [その他(戦史研究関係)]
2018年も、今日で終わりとなりました。今月は、来年春に刊行予定の新書の原稿執筆に明け暮れており、食事くらいしか楽しみがない日々ですが、12月8日に大阪の立命館大学いばらきキャンパスで、香山リカさんらと共に講演を行いました。
私の演題は「ヘイトスピーチと歴史修正主義の根底にあるもの」。戦史・紛争史研究と、どんな関係があるのかと思う方もおられるかもしれませんが、近現代史に詳しい方ならご承知のとおり、特定の外国人や国内の少数派を敵視して存在価値を否定するような「ヘイトスピーチ」は、過去の紛争や戦争、大量虐殺の前段階としてしばしば見られる、いわば「戦争や紛争の初期症状」とも呼べる現象でした。
また、自国の過去の歴史を特定の政治的価値観に沿う形へと歪め、過去に起きた不都合な出来事を否認する「歴史修正主義」も、1930年代の日本を含む全体主義の権威主義国によく見られる現象で、自国優越思想の土台としても用いられる言説でした。そして、「ヘイトスピーチ」と「歴史修正主義」の両方の根底にあるのが、麻薬のように人の心を酔わせる「排外的で権威主義的な自国優越思想」です。
従って、この二つの社会現象は、決して甘く見てよいものではなく、将来において国の進路を誤らせる効果を持ちうる、危険な「前兆」として捉える必要があるように思います。1930年のドイツや日本の状況を見て、人々はなぜ道を誤ったのか、何かできることはあったのではないか、と、後世の我々は気軽に論評しますが、もしかしたら今の日本人もまた、後世の日本人や外国人から「あの時代の日本人はなぜ道を誤ったのか」「それに抗うためにできることを全てやったのか」と論評される時代が来るかもしれません。そんな、同時代人としての当事者意識を持つことが必要ではないか、と私は最近特に強く感じているところです。もちろん、これが杞憂であればいいのですが。
今年は、2月に『[新版]西部戦線全史』(朝日文庫)、4月に『1937年の日本人』(朝日新聞出版)、6月に『[増補版]戦前回帰 「大日本病」の再発』(朝日文庫)を上梓したほか、毎号寄稿している雑誌『歴史群像』(学研)では7月発売号で付録のボードゲームも制作・デザインし、大きな反響を得ることができました。
来年は、春頃に単行本一冊と新書一冊が刊行予定で、それ以外の予定もいくつか決定しています。本の内容については、タイトルや発売日が確定次第、改めて告知しますので、ぜひご期待ください。来年もよろしくお願いいたします。
【おまけ1】
執筆の仕事の合間に、来年アメリカのコンパス・ゲームズ(Compass Games)社から発売予定の新作ボードゲーム『フォー・マザーランド!(For Motherland !)』のプレイテストを友人と行っています。テーマは第二次大戦期の独ソ戦(ドイツとソ連の戦い)で、昔デザインした『ウォー・フォー・ザ・マザーランド』をリサイズしてよりプレイしやすく、またより歴史再現性を高めた内容に仕上がりつつあります。
同社の公式サイトでは、既にプレオーダー(予約注文)が行われており、ユーザーの反応は上々とのことです。
コンパス・ゲームズ社の公式サイト
【おまけ2】
私の住む名張市では、毎年夏に花火大会が開催されていますが、今年は豪雨と重なったため、11月に延期されていました。そして11月24日の夜に予定通り開催され、私は地元の友人と一緒に観に行ってきました。
この頃には既に気温がだいぶ低くなっており、ちびっこたちは防寒着で観覧していましたが、適度に風が吹いて空気が澄んでいたこともあり、真夏の花火とは違った美しさがありました。
これらの写真は、ポケットに入るコンパクトなデジカメで撮影しましたが、三脚に据えて「花火モード」にすれば、うまい具合に光跡を写し込むことができました。
それでは皆様、よいお年を!
私の演題は「ヘイトスピーチと歴史修正主義の根底にあるもの」。戦史・紛争史研究と、どんな関係があるのかと思う方もおられるかもしれませんが、近現代史に詳しい方ならご承知のとおり、特定の外国人や国内の少数派を敵視して存在価値を否定するような「ヘイトスピーチ」は、過去の紛争や戦争、大量虐殺の前段階としてしばしば見られる、いわば「戦争や紛争の初期症状」とも呼べる現象でした。
また、自国の過去の歴史を特定の政治的価値観に沿う形へと歪め、過去に起きた不都合な出来事を否認する「歴史修正主義」も、1930年代の日本を含む全体主義の権威主義国によく見られる現象で、自国優越思想の土台としても用いられる言説でした。そして、「ヘイトスピーチ」と「歴史修正主義」の両方の根底にあるのが、麻薬のように人の心を酔わせる「排外的で権威主義的な自国優越思想」です。
従って、この二つの社会現象は、決して甘く見てよいものではなく、将来において国の進路を誤らせる効果を持ちうる、危険な「前兆」として捉える必要があるように思います。1930年のドイツや日本の状況を見て、人々はなぜ道を誤ったのか、何かできることはあったのではないか、と、後世の我々は気軽に論評しますが、もしかしたら今の日本人もまた、後世の日本人や外国人から「あの時代の日本人はなぜ道を誤ったのか」「それに抗うためにできることを全てやったのか」と論評される時代が来るかもしれません。そんな、同時代人としての当事者意識を持つことが必要ではないか、と私は最近特に強く感じているところです。もちろん、これが杞憂であればいいのですが。
今年は、2月に『[新版]西部戦線全史』(朝日文庫)、4月に『1937年の日本人』(朝日新聞出版)、6月に『[増補版]戦前回帰 「大日本病」の再発』(朝日文庫)を上梓したほか、毎号寄稿している雑誌『歴史群像』(学研)では7月発売号で付録のボードゲームも制作・デザインし、大きな反響を得ることができました。
来年は、春頃に単行本一冊と新書一冊が刊行予定で、それ以外の予定もいくつか決定しています。本の内容については、タイトルや発売日が確定次第、改めて告知しますので、ぜひご期待ください。来年もよろしくお願いいたします。
【おまけ1】
執筆の仕事の合間に、来年アメリカのコンパス・ゲームズ(Compass Games)社から発売予定の新作ボードゲーム『フォー・マザーランド!(For Motherland !)』のプレイテストを友人と行っています。テーマは第二次大戦期の独ソ戦(ドイツとソ連の戦い)で、昔デザインした『ウォー・フォー・ザ・マザーランド』をリサイズしてよりプレイしやすく、またより歴史再現性を高めた内容に仕上がりつつあります。
同社の公式サイトでは、既にプレオーダー(予約注文)が行われており、ユーザーの反応は上々とのことです。
コンパス・ゲームズ社の公式サイト
【おまけ2】
私の住む名張市では、毎年夏に花火大会が開催されていますが、今年は豪雨と重なったため、11月に延期されていました。そして11月24日の夜に予定通り開催され、私は地元の友人と一緒に観に行ってきました。
この頃には既に気温がだいぶ低くなっており、ちびっこたちは防寒着で観覧していましたが、適度に風が吹いて空気が澄んでいたこともあり、真夏の花火とは違った美しさがありました。
これらの写真は、ポケットに入るコンパクトなデジカメで撮影しましたが、三脚に据えて「花火モード」にすれば、うまい具合に光跡を写し込むことができました。
それでは皆様、よいお年を!
2018年11月25日 [その他(戦史研究関係)]
先月は結局、忙しくてブログの更新を行えませんでした。ということで、二か月ぶりの更新です。
まず、11月初めに『歴史群像』誌(学研)の第152号(11月号)が発売されました。今回の私の担当記事は「ウラーソフ将軍とロシア解放軍」で、第二次大戦中にドイツに降伏したあと、ソ連のスターリン体制打倒という大義を胸に抱いて義勇兵となってドイツ側で戦った、100万人を超えるソ連軍将兵たちの葛藤と苦難の物語です。
記事では、ロシア解放軍創設以前に大量に編成され、西部戦線のノルマンディー上陸作戦の戦場でも戦った「オスト大隊」についても書いています。戦争という嵐の中では、将軍ですら小さい存在でした。
上の画像は、記事中でも図版として使われていますが、親独義勇兵組織の指導者ウラーソフが署名してソ連兵の頭上に撒かれた宣伝ビラの一つ。
11月5日から8日までは、内田樹さん並びに氏の門人の皆さんと一緒に韓国へ行ってきました。内田さんは、韓国の教育関係者向けの講演を二回行われ、私は韓国の近現代史関連の博物館などをたくさん見学でき、とても楽しく充実した韓国滞在でした。ソウルの気候は思っていたほど寒くはなく、ちょうど紅葉の季節を迎えていました。気候の乱れのせいか、今年の日本では紅葉がまだらに進み、一本の木でも赤や黄色の葉と緑の葉が混じっていたりしますが、韓国の秋の景色はとても良い感じでした。しかし意外と坂が多くて、一日歩き回ると結構疲れました。
韓国の近現代史に関する博物館の展示内容は、かつてこの国を併合し支配した国の人間にとっては重いものが多いですが、日帝(大日本帝国)の非人道的行為だけでなく、戦後の軍部独裁政権時代の自国民に対する非人道的行為に関する公的博物館もあり、日本国内の現状との違いを改めて認識させられました。
ソウルの明洞聖堂(1898年完成)。最近日本でも公開された韓国映画『1987、ある闘いの真実』でも描かれていたように、ここは軍部独裁時代の韓国で、民主化運動の重要な拠点の一つでした。私が訪れたのは朝九時過ぎで、聖堂建物の南側では、朝日を背にした聖母マリア像の前にひざまずいて祈る信徒の人がいました。
ソウル駅東方の丘の上に建つ、安重根の銅像。隣には彼の記念館が併設されています。1909年10月26日に満洲のハルビンで伊藤博文を暗殺した韓国の民族主義者として知られる人物ですが、安重根は韓国に対する日本政府の理不尽な諸政策は「伊藤個人の悪辣さ」が原因だと理解していた模様。つまり彼は単純な反日活動家ではありませんでした。日中韓の対等な連携を提唱していた記録もあります。
ソウル市内にある戦争記念館。朝鮮と韓国が経験した戦争を扱う軍事博物館で、朝鮮戦争に関連する地図や文書、装備のほか、平壌占領時に韓国軍部隊が捕獲した金日成の専用車(ソ連製のZIS110リムジン)も展示しています。
屋外には朝鮮戦争で使用されたものを中心に、戦車や航空機、火砲などが並んでいます。ソ連製のカチューシャ・ロケットもありました。
中之島の中央公会堂に似た建物は、ソウル駅の旧駅舎。中央公会堂や東京駅を設計した辰野金吾の弟子の塚本靖が設計し、日本統治時代の1922年に建設が始まり、1925年に完成しました。隣接する新駅舎の開業で駅舎としての役目を終え、今は「文化駅ソウル284」という展覧会等を行う施設として公開されています。
ソウル駅から1キロほど南方にある、かつて「南営洞対共分室」があった建物。映画「1987、ある闘いの真実」で描かれたように、ソウル大学の学生朴鍾哲(パクジョンチョル)君が、ここで警察の拷問を受けて死亡しました。現在は「警察庁人権センター」と「朴鍾哲記念展示室」として警察が反省的に公開しています。建物の1階、4階、5階に関連の展示室があり、5階には1987年1月14日に朴鍾哲君が水攻めで殺害された「事件現場」と、フロア全体を占めるそれ以外の独房が公開されています。
朴鍾哲君が拷問で殺害された部屋。窓は縦長のスリット状で、脱走や自殺を図れないよう、横幅は人間の頭よりも狭い。ドイツのダッハウ強制収容所等とも近い雰囲気です。4階には、1980年代の民主化運動と朴鍾哲君の事件に関する展示がある「朴鍾哲記念展示室」と、それに隣接する「人権啓発センター」があり、後者ではイギリスのマグナ・カルタ(大憲章)などを引用しながら、政府や警察などの権力の横暴から守られるべきものとしての市民の人権の重要さを説明しています。
ソウル駅から南西に1キロほどの場所にある孝昌(ヒョチャン)公園には、韓国の民族運動指導者・金九(キム・グ)の墓と、彼の配下で日本に対する武力闘争を行った「義士」の墓が並んでいます。李奉昌(イ・ポンチャン)は、1932年に東京の桜田門付近で昭和天皇の暗殺を試みて失敗し、死刑となった人物。
孝昌公園にある「義烈祠(ウィヨルサ)」。金九をはじめ、李奉昌(イ・ボンチャン)、尹奉吉(ユン・ボンギル)、白貞基(ペク・ジョンギ)など、韓国独立運動で日本に対する武力闘争を行った「義士」7人の影幀(肖像画が描かれた掛け軸)が安置されている祠堂で、1990年に建立されました。
孝昌公園の敷地内に建つ、白凡記念館。白凡とは金九の別名で、韓国独立運動の指導者としての功績を称える内容の展示がなされています。第二次大戦中は、中国の重慶で韓国の在外政府(大韓民国臨時政府)を指導し(ただし承認国はなし)、日本の敗戦後は米ソによる南北分断の信託統治に反対する運動を指導しましたが、対米従属的な李承晩と対立し、韓国軍の一将校によって1949年6月26日に暗殺されました。米国政府との関係は微妙で、日本敗戦後は親米派の李承晩との政争に敗れましたが、重慶時代は「韓国光復軍(KLA)」を編成し、米国の特務機関OSSの支援を受けていました。
ソウル中心部の光化門広場にある、世宗(セジョン)大王の像。十五世紀に李氏朝鮮の第4代国王だった人物で、ハングルの創製を行った国民的英雄として尊敬されています。一万ウォン紙幣にもこの王の肖像画が記されていますが、その一方で仏教徒の弾圧や中国(明)への少女貢進などを政策として行っていました。
世宗大王像の近くにある大韓民国歴史博物館の展示物。日本統治下で「帝国臣民」とされ、毎朝皇居を遙拝することを強制された朝鮮の人々は、戦時には徴兵や徴用などで日本の行う戦争に加担させられていました。日本と朝鮮(韓国)の立場が逆だったら、と想像すれば、その意味を理解できます。日本が大韓帝国の植民地となり、韓国軍に日本人が徴兵・徴用されていたら。
金九らの指導した大韓民国臨時政府の、中国での移転を示した地図と、日本降伏後の朝鮮半島で米ソ両国が便宜上の統治境界線として設定した北緯38度線の境界標。もし日本がソ連参戦前に降伏していたら、大韓民国臨時政府が光復軍と共に帰国し、朝鮮半島は分断されずに統一国家となっていた可能性があります。
ソウルの光化門広場の北にある景福宮。李氏朝鮮時代の十四世紀末に造られた王宮ですが、日本統治時代には、王宮を完全に塞ぐ形で朝鮮総督府の近代的なビルが敷地内に建てられていました。正面の光化門は別の場所へ移設されましたが、敷地内の建物の九割が破壊されました。こうした行為に、統治者としての大日本帝国政府の傲慢な悪意が表れているようです。景福宮は、日本に併合される前の1895年10月8日に起きた「乙未(いつび)事変」、つまり閔妃暗殺事件の舞台でもありました。日本人と朝鮮人の手下を使い、同地の敷地内で朝鮮国王の王妃を殺害した首謀者の三浦梧楼公使(予備役中将)らは、逮捕されて日本で裁判にかけられましたが、全員無罪放免となりました。
ソウルの景福宮の北側にある青瓦台(チョンワデ)。韓国の大統領官邸で、朴正煕大統領時代の1968年1月21日には北朝鮮の特殊部隊が朴大統領を暗殺するため、この場所から数百メートルの場所まで接近しました。2007年に学研から出たムック本『世界の特殊作戦』で、この事件について記事を書いたことがあります。この朴正煕大統領暗殺未遂の報復として、韓国側も北朝鮮軍の侵入者と同人数の31人から成る金日成暗殺部隊を極秘裏に編成し、仁川の沖にある実尾島(シルミド)で訓練しました。しかし南北融和で暗殺計画が放棄され、政府から闇に葬られようとした暗殺部隊は反乱。これが映画『シルミド』の背景となる実話です。
北緯38度線付近を訪れるDMZ(非武装地帯)の見学ツアーにも参加しました。1953年の休戦協定締結後に捕虜交換で使われた「自由の橋」や、北朝鮮が韓国侵入用に掘ったトンネルの中、北朝鮮が望める展望台などを見て回りました。次回は板門店のJSA(共同警備区域)にも行きたい。
北緯38度線の境界近くにある都羅山(ドラサン)駅。分断されている京義鉄道を復旧し、ソウルから平壌まで繋ぐことを想定した韓国最北端の駅で、行き先表示には「平壌」の地名が記されています。北緯38度線という境界は、1945年も1953年も便宜上決まったもので、遅かれ早かれ解消される日が来るだろうと思います。
今月は、長く取り組んできた単行本の原稿と『歴史群像』誌の来年1月発売号の担当記事(イタリア内戦 1943-1945)を既に脱稿し、年内は来年出る新書の執筆に没頭します。テーマや発売日等は、年明けに改めて告知します。
【おまけ】
韓国で食べた美味しいもの。昼食にキンパ(海苔巻き)とわかめスープを頼んだら、この写真を撮ったあと、スープに小皿とごはん一膳が付いてきました。しかし旅行中は食欲が旺盛になるので、結局完食しました。
栄養満点の参鶏湯(サンゲタン)。鶏は骨まで全部食べられます。
ソウルで食した平壌冷麺。韓国の冷麺は、ハサミで切るほど麺が硬い印象ですが、こちらは冷たいおそばのような感じで硬くはなく、ダシの効いたスープと共に、美味しくいただきました。暑い夏よりも寒い冬に、暖房の効いた部屋で食べる料理らしい。
唐辛子を利かせた肉料理と石焼きビビンバ。滞在中に食べた料理は外れなしで、どれも大満足でした。
まず、11月初めに『歴史群像』誌(学研)の第152号(11月号)が発売されました。今回の私の担当記事は「ウラーソフ将軍とロシア解放軍」で、第二次大戦中にドイツに降伏したあと、ソ連のスターリン体制打倒という大義を胸に抱いて義勇兵となってドイツ側で戦った、100万人を超えるソ連軍将兵たちの葛藤と苦難の物語です。
記事では、ロシア解放軍創設以前に大量に編成され、西部戦線のノルマンディー上陸作戦の戦場でも戦った「オスト大隊」についても書いています。戦争という嵐の中では、将軍ですら小さい存在でした。
上の画像は、記事中でも図版として使われていますが、親独義勇兵組織の指導者ウラーソフが署名してソ連兵の頭上に撒かれた宣伝ビラの一つ。
11月5日から8日までは、内田樹さん並びに氏の門人の皆さんと一緒に韓国へ行ってきました。内田さんは、韓国の教育関係者向けの講演を二回行われ、私は韓国の近現代史関連の博物館などをたくさん見学でき、とても楽しく充実した韓国滞在でした。ソウルの気候は思っていたほど寒くはなく、ちょうど紅葉の季節を迎えていました。気候の乱れのせいか、今年の日本では紅葉がまだらに進み、一本の木でも赤や黄色の葉と緑の葉が混じっていたりしますが、韓国の秋の景色はとても良い感じでした。しかし意外と坂が多くて、一日歩き回ると結構疲れました。
韓国の近現代史に関する博物館の展示内容は、かつてこの国を併合し支配した国の人間にとっては重いものが多いですが、日帝(大日本帝国)の非人道的行為だけでなく、戦後の軍部独裁政権時代の自国民に対する非人道的行為に関する公的博物館もあり、日本国内の現状との違いを改めて認識させられました。
ソウルの明洞聖堂(1898年完成)。最近日本でも公開された韓国映画『1987、ある闘いの真実』でも描かれていたように、ここは軍部独裁時代の韓国で、民主化運動の重要な拠点の一つでした。私が訪れたのは朝九時過ぎで、聖堂建物の南側では、朝日を背にした聖母マリア像の前にひざまずいて祈る信徒の人がいました。
ソウル駅東方の丘の上に建つ、安重根の銅像。隣には彼の記念館が併設されています。1909年10月26日に満洲のハルビンで伊藤博文を暗殺した韓国の民族主義者として知られる人物ですが、安重根は韓国に対する日本政府の理不尽な諸政策は「伊藤個人の悪辣さ」が原因だと理解していた模様。つまり彼は単純な反日活動家ではありませんでした。日中韓の対等な連携を提唱していた記録もあります。
ソウル市内にある戦争記念館。朝鮮と韓国が経験した戦争を扱う軍事博物館で、朝鮮戦争に関連する地図や文書、装備のほか、平壌占領時に韓国軍部隊が捕獲した金日成の専用車(ソ連製のZIS110リムジン)も展示しています。
屋外には朝鮮戦争で使用されたものを中心に、戦車や航空機、火砲などが並んでいます。ソ連製のカチューシャ・ロケットもありました。
中之島の中央公会堂に似た建物は、ソウル駅の旧駅舎。中央公会堂や東京駅を設計した辰野金吾の弟子の塚本靖が設計し、日本統治時代の1922年に建設が始まり、1925年に完成しました。隣接する新駅舎の開業で駅舎としての役目を終え、今は「文化駅ソウル284」という展覧会等を行う施設として公開されています。
ソウル駅から1キロほど南方にある、かつて「南営洞対共分室」があった建物。映画「1987、ある闘いの真実」で描かれたように、ソウル大学の学生朴鍾哲(パクジョンチョル)君が、ここで警察の拷問を受けて死亡しました。現在は「警察庁人権センター」と「朴鍾哲記念展示室」として警察が反省的に公開しています。建物の1階、4階、5階に関連の展示室があり、5階には1987年1月14日に朴鍾哲君が水攻めで殺害された「事件現場」と、フロア全体を占めるそれ以外の独房が公開されています。
朴鍾哲君が拷問で殺害された部屋。窓は縦長のスリット状で、脱走や自殺を図れないよう、横幅は人間の頭よりも狭い。ドイツのダッハウ強制収容所等とも近い雰囲気です。4階には、1980年代の民主化運動と朴鍾哲君の事件に関する展示がある「朴鍾哲記念展示室」と、それに隣接する「人権啓発センター」があり、後者ではイギリスのマグナ・カルタ(大憲章)などを引用しながら、政府や警察などの権力の横暴から守られるべきものとしての市民の人権の重要さを説明しています。
ソウル駅から南西に1キロほどの場所にある孝昌(ヒョチャン)公園には、韓国の民族運動指導者・金九(キム・グ)の墓と、彼の配下で日本に対する武力闘争を行った「義士」の墓が並んでいます。李奉昌(イ・ポンチャン)は、1932年に東京の桜田門付近で昭和天皇の暗殺を試みて失敗し、死刑となった人物。
孝昌公園にある「義烈祠(ウィヨルサ)」。金九をはじめ、李奉昌(イ・ボンチャン)、尹奉吉(ユン・ボンギル)、白貞基(ペク・ジョンギ)など、韓国独立運動で日本に対する武力闘争を行った「義士」7人の影幀(肖像画が描かれた掛け軸)が安置されている祠堂で、1990年に建立されました。
孝昌公園の敷地内に建つ、白凡記念館。白凡とは金九の別名で、韓国独立運動の指導者としての功績を称える内容の展示がなされています。第二次大戦中は、中国の重慶で韓国の在外政府(大韓民国臨時政府)を指導し(ただし承認国はなし)、日本の敗戦後は米ソによる南北分断の信託統治に反対する運動を指導しましたが、対米従属的な李承晩と対立し、韓国軍の一将校によって1949年6月26日に暗殺されました。米国政府との関係は微妙で、日本敗戦後は親米派の李承晩との政争に敗れましたが、重慶時代は「韓国光復軍(KLA)」を編成し、米国の特務機関OSSの支援を受けていました。
ソウル中心部の光化門広場にある、世宗(セジョン)大王の像。十五世紀に李氏朝鮮の第4代国王だった人物で、ハングルの創製を行った国民的英雄として尊敬されています。一万ウォン紙幣にもこの王の肖像画が記されていますが、その一方で仏教徒の弾圧や中国(明)への少女貢進などを政策として行っていました。
世宗大王像の近くにある大韓民国歴史博物館の展示物。日本統治下で「帝国臣民」とされ、毎朝皇居を遙拝することを強制された朝鮮の人々は、戦時には徴兵や徴用などで日本の行う戦争に加担させられていました。日本と朝鮮(韓国)の立場が逆だったら、と想像すれば、その意味を理解できます。日本が大韓帝国の植民地となり、韓国軍に日本人が徴兵・徴用されていたら。
金九らの指導した大韓民国臨時政府の、中国での移転を示した地図と、日本降伏後の朝鮮半島で米ソ両国が便宜上の統治境界線として設定した北緯38度線の境界標。もし日本がソ連参戦前に降伏していたら、大韓民国臨時政府が光復軍と共に帰国し、朝鮮半島は分断されずに統一国家となっていた可能性があります。
ソウルの光化門広場の北にある景福宮。李氏朝鮮時代の十四世紀末に造られた王宮ですが、日本統治時代には、王宮を完全に塞ぐ形で朝鮮総督府の近代的なビルが敷地内に建てられていました。正面の光化門は別の場所へ移設されましたが、敷地内の建物の九割が破壊されました。こうした行為に、統治者としての大日本帝国政府の傲慢な悪意が表れているようです。景福宮は、日本に併合される前の1895年10月8日に起きた「乙未(いつび)事変」、つまり閔妃暗殺事件の舞台でもありました。日本人と朝鮮人の手下を使い、同地の敷地内で朝鮮国王の王妃を殺害した首謀者の三浦梧楼公使(予備役中将)らは、逮捕されて日本で裁判にかけられましたが、全員無罪放免となりました。
ソウルの景福宮の北側にある青瓦台(チョンワデ)。韓国の大統領官邸で、朴正煕大統領時代の1968年1月21日には北朝鮮の特殊部隊が朴大統領を暗殺するため、この場所から数百メートルの場所まで接近しました。2007年に学研から出たムック本『世界の特殊作戦』で、この事件について記事を書いたことがあります。この朴正煕大統領暗殺未遂の報復として、韓国側も北朝鮮軍の侵入者と同人数の31人から成る金日成暗殺部隊を極秘裏に編成し、仁川の沖にある実尾島(シルミド)で訓練しました。しかし南北融和で暗殺計画が放棄され、政府から闇に葬られようとした暗殺部隊は反乱。これが映画『シルミド』の背景となる実話です。
北緯38度線付近を訪れるDMZ(非武装地帯)の見学ツアーにも参加しました。1953年の休戦協定締結後に捕虜交換で使われた「自由の橋」や、北朝鮮が韓国侵入用に掘ったトンネルの中、北朝鮮が望める展望台などを見て回りました。次回は板門店のJSA(共同警備区域)にも行きたい。
北緯38度線の境界近くにある都羅山(ドラサン)駅。分断されている京義鉄道を復旧し、ソウルから平壌まで繋ぐことを想定した韓国最北端の駅で、行き先表示には「平壌」の地名が記されています。北緯38度線という境界は、1945年も1953年も便宜上決まったもので、遅かれ早かれ解消される日が来るだろうと思います。
今月は、長く取り組んできた単行本の原稿と『歴史群像』誌の来年1月発売号の担当記事(イタリア内戦 1943-1945)を既に脱稿し、年内は来年出る新書の執筆に没頭します。テーマや発売日等は、年明けに改めて告知します。
【おまけ】
韓国で食べた美味しいもの。昼食にキンパ(海苔巻き)とわかめスープを頼んだら、この写真を撮ったあと、スープに小皿とごはん一膳が付いてきました。しかし旅行中は食欲が旺盛になるので、結局完食しました。
栄養満点の参鶏湯(サンゲタン)。鶏は骨まで全部食べられます。
ソウルで食した平壌冷麺。韓国の冷麺は、ハサミで切るほど麺が硬い印象ですが、こちらは冷たいおそばのような感じで硬くはなく、ダシの効いたスープと共に、美味しくいただきました。暑い夏よりも寒い冬に、暖房の効いた部屋で食べる料理らしい。
唐辛子を利かせた肉料理と石焼きビビンバ。滞在中に食べた料理は外れなしで、どれも大満足でした。
2018年8月24日 [その他(戦史研究関係)]
今日はまず告知です。久々に「戦史ノート」シリーズの電子書籍をひとつ刊行しました。第68巻『張鼓峰事件』です。
第68巻『張鼓峰事件』(AMAZON Kindle)
先日NHKで放送されたノモンハンの番組で、関東軍の辻政信が起案した「満ソ国境紛争処理要綱」(「国境が不明確な箇所では、現地の防衛司令官が自主的に国境線を設定せよ」「敵軍駆逐という目的を達成するためならば、一時的にソ連領内に入っても構わない」等)が、重要な発生原因の一つとして指摘されていましたが、辻がこれを策定したのは、張鼓峰事件の翌年三月に現地を視察した後でした。ノモンハン事件(紛争)に関心がある人にも、その前段階の出来事を知るために、読んでいただければ幸いです。
以下、商品説明より一部抜粋。
「領土紛争や国境紛争について考える場合、軍人の思考では『個々の戦闘における勝ち負け』や『勇戦・奮戦する姿』が重視されることが多いですが、国家間の政治問題として総合的に判断するなら、それが『多くの人命を失う価値のある出来事だったのか』、そして『その人命の損失は果たして避けられないものだったのか』という評価基準も必要となります。
領土紛争や国境紛争で『戦って勝つか負けるか』ではなく、『戦わずに国益を追求する方が結局は得策ではないか』という非軍事的な視点が、広義の安全保障問題を考える際には重要な意味を持つことを、張鼓峰事件は後世に教えていると言えます。現在の離島防衛を含む日本の安全保障問題にも、この出来事は多くの示唆を含んでいるように思います」
さて、7月6日の『歴史群像』誌第150号発売から7週間が経ちましたが、かつてないほどの売れ行きを記録している模様です。ありがとうございます。
一方、付録ゲーム「モスクワ攻防戦」でゲーム終盤のソ連軍の押し返しが弱くて、なかなか勝敗判定ヘクスまでたどり着けないという意見もちらほら耳にします。そんな方はぜひこちらのブログ記事を参考にしてください。筆者は、今回ゲームのプレイテストを担当してくださった一人、古角博昭さんです。
歴史群像の『モスクワ攻防戦』を徹底解剖してみた
ただ、ウォーゲームのテクニックをすぐに会得するのも難しいとは思いますので、当座の対処として、ソ連軍攻勢支援マーカーの効果を「右に1列」でなく「右に2列(または3列)」に変更してプレイすることも試してみてください。
この変更案だと、ドイツ軍が予期しない箇所で戦線が大きく動く可能性が生じますが、マーカー数が限られていますし、冬将軍の到来による攻防の転換がよりドラマチックに感じられるのでは、と思います。ドイツ軍もゲーム序盤からより一層、自軍の損害管理に注意を払わなくてはならなくなります。
ちなみに、デザイナー(私)のお薦めは「右に3列」シフトです。実はゲームのプレイテストを開始した最初の段階(3月4日作成のルール)では「凍結ターン中に行われるソ連軍の攻撃は、すべて戦力比を右に3列ずらして解決する」「凍結ターンに行われるソ連軍の攻撃に、攻勢支援マーカーが適用された場合、攻撃側の戦闘力に2を加算する」というルールになっていました。
また、一部ではある種の「裏ワザ的プレイ」として、第1ターンのドイツ軍は少数の装甲軍団だけが移動と攻撃を行い、残りのドイツ軍部隊は攻撃をしないどころか、ソ連軍に反撃されて損害を被ることを避けるために「西方向へ離れて逃げる」という手を使うという話もあるようです。実際には、そんな奇怪なやり方でプレイしても「ゲームが壊れる」だけで、ドイツ軍が勝ったとしても対戦ゲームとして楽しくないので、実際にしている人はほとんどいないようですが、そんな手を使う余地を残しておくのも問題だと思うので、以下のルール追記を行ってください。
ルール6.4項の「第1親衛狙撃兵軍団(1Gd、ヘクス1210に配置)」と「のユニットだけが移動できます」の間に「と、その時点でドイツ軍のZOCにいないソ連軍」を挿入してください。つまり、ルール6.4項は「第1ターンのソ連軍移動フェイズでは、第1親衛狙撃兵軍団(1Gd、ヘクス1210に配置)と、その時点でドイツ軍のZOCにいないソ連軍のユニットだけが移動できます。それ以外のユニットは、第1ターンのソ連軍移動フェイズには移動できません」となります。
そもそも、第1ターンに前線のソ連軍ユニットが移動できないというルールは、主にドイツ軍の支配地域(ZOC)の拘束力を史実のモスクワ戦に近い形で高めるために用意したもので、独ソ戦に詳しい方ならその意味を容易に理解していただけるかと思います。なので、ドイツ軍が「反撃を恐れて後ろに下がる」なら、そんな拘束力は消滅するので、第1ターンのソ連軍移動フェイズ開始時にドイツ軍のZOCにいないユニットは、自由に移動を行えるようになるわけです。
今回、『歴史群像』第150号の付録として収録した二つのゲームは、戦史に深い関心を持つ同誌の読者の方々に、ボードゲームの対戦/プレイを楽しみつつ、題材となる戦史への興味をより深めてもらおうという意図で制作したもので、発売後の反響を見る限り、おおむね成功したと理解してもいいように思います。
そして、今までウォーゲームというカテゴリーを知らなかった人に、この趣味の面白さや醍醐味が伝わり、同好の士を増やすことに寄与できたのなら、プレイテスターを含む制作者一同として、これに勝る喜びはありません。ウォーゲームとは異なる一般ボードゲームの愛好家の皆さんからも、好意的な反響をいただけて嬉しく思います。このような機会は、望んでもなかなか得られない貴重なチャンスですが、皆さんが「モスクワ攻防戦」と「バルジの戦い」のプレイを長く楽しんで下さることを、制作者一同として願っています。
【正誤表】
なお、「バルジの戦い」のルールブックで誤字が一つ見つかりました。21ページのルール5.1「ターンの手順」で、「ドイツ軍第1戦闘フェイズ」とあるのは「ドイツ軍第1突撃フェイズ」の誤りです。お詫びして訂正します。
それから、「モスクワ攻防戦」について、ルールQ&Aを2つ追加しましたので、参考にしてください。これ以前の追加Q&Aは、学研の『歴史群像』公式サイト内の「制作こぼれ話」のページに出ています。
『歴史群像』「制作こぼれ話」第150号
Q7: 7.8項の「ソ連軍の場合、味方ユニットのいるへクスへも退却して入ることができません」とは、敵ZOCの場合だけなのか、それとも敵ZOC以外の場合も含めてなのか?
A7: これは、敵ZOC以外の場合も含めてです。ソ連軍は、敵ZOCに関わらず、味方ユニットのいるヘクスへは退却できません。
Q8: 7.8項にあるように、ドイツ軍が「追加で1ヘクスの退却」を行った先にも、他のドイツ軍ユニットが存在する場合、さらに「追加で1ヘクスの退却」を行うのか? 言い換えれば、他のドイツ軍ユニットがいないヘクスまで、退却を続けるのか?
A8: いいえ、1回の退却で行えるのは「追加で1ヘクスの退却」のみです。1ヘクスの追加退却を行っても、他の味方ユニットがおらず、なおかつ敵ZOCでないヘクスに入れなければ、そのユニットは全滅したものと見なされて除去されます。
2018年5月13日 [その他(戦史研究関係)]
先月(4月)後半は、ヨーロッパへの旅行(後述)などもあって、結局更新できずじまいでした。改めて、近況の報告です。
まず、前回の記事で告知した新刊『1937年の日本人』(朝日新聞出版)が、4月20日に発売となりました。80年前の日本社会がどう変わって行ったのか、当時の日本人の目線に寄り添いながら、日々少しずつ進む空気の変化を丁寧に振り返る内容です。
最終章では、帝国議会(国会)での国家総動員法の審議中に起きた、佐藤賢了中佐の「黙れ」暴言事件も、前後の経緯を含め「起こるべくして起きた事件」として紹介しています。最近起きた自衛隊三佐の行動とも通底する面があると思います。
次に、『歴史群像』(学研)6月号が、5月7日に発売となりました。
今回の私の担当記事は「中近東諸国と第二次大戦」で、同戦争期にイラク、シリア、イラン、パレスチナ等で起きた政治と軍事の戦いについて、俯瞰的に解説しています。英仏対ドイツ、英仏対ソ連、英対イラク、英対仏、英ソ対イラン等、敵味方が頻繁に入れ替わりました。現在の中東情勢に、影を落としている部分もあります。
そして7月6日発売予定の『歴史群像』次号(通巻150号記念号)では、2012年の創刊20周年記念号(8月号)に続き、厚紙のコマとカラーマップでプレイするボードゲームが付録で付く予定です。
今回もゲームデザインとアートワーク、ルール編集を私が担当しました。2人用の「モスクワ攻防戦」と1人用の「バルジの戦い」です。前回は「日本海軍特集」で「ミッドウェー海戦」と「日本海海戦」のコンボでしたが、今回は「ドイツ陸軍特集」ということで、この組み合わせになりました。
ゲームマップは、こんな感じです。詳しいゲームの内容については、次の機会に改めて紹介します。
さて、4月9日から4月20日まで、取材を兼ねた旅行でドイツとチェコ、オーストリアに行ってきました。今回はまずベルリンで四泊し、三日目からはレンタカーを借りて、ザクセンハウゼン、ヴァンゼー、ポツダム、ヴュンスドルフ、ドレスデン、テレジーン(チェコ)、プルゼニ(同)、ニュルンベルク、ブラウナウ(オーストリア)、バートアウスゼー(同)、アルタウッセ(同)、ハルシュタット(同)、ザルツブルク(同)、ベルヒテスガーデン、ミュンヘン、ダッハウ、ノイシュヴァンシュタイン城、ランツベルクなどの歴史的な場所を見て回りました。
ドイツ現代史に関心のある人なら、上の地名の羅列を見て、旅行のメインテーマを大体推測できるかと思いますが、ドイツ国民の過去との向き合い方と日本国民のそれとを比較すると、ドイツが理想だとは言わないにせよ、やはり大きな違いがあると実感しました。
ベルリンの絵画館のそばにある「ドイツ抵抗記念センター」という博物館のある建物。ここに面した道「シュタウフェンベルク通り」は、第二次大戦期には「ベンドラー通り」という名で、ドイツ国防軍や陸軍国内軍などの中枢機関が置かれ、第二次大戦末期には、軍部の反ヒトラー運動の拠点として機能しました。
ドイツ現代史で重要な舞台となった国会(連邦議会)議事堂(ライヒスターク)。ヒトラーとナチスが独裁体制を固める際に利用されたのが1933年の「共産主義者による国会議事堂放火事件」で、ヒトラーとナチス体制が終焉を迎えた1945年には、ベルリンを征服したソ連軍兵士がこの国会議事堂の屋根にソ連の赤い国旗を掲げました。
「ヨーロッパで虐殺されたユダヤ人のための記念碑」。単に四角い石が並ぶだけに見えますが、中央で地面が下がっており、画一的な石の間を歩くと、アウシュヴィッツで画一的なバラックの間を歩いた時と同じ感覚に襲われて衝撃を受けました。上を見上げても空を石が挟み込む圧迫感。これは凄い記念碑だと思いました。
「ヨーロッパで虐殺されたユダヤ人のための記念碑」は、かつてヒトラーの総統官房があった区画から、小さい交差点を挟んだ対角線上にあります。ヒトラーが1945年に自殺し、死体がガソリンで焼却された総統官房があった一帯は、今では普通の駐車場や集合住宅になっています。
ベルリンの西部にある、オリンピック競技場。1936年のベルリン五輪のために建設されたメイン競技場で、屋根やフィールドは改修され、今も大きなスポーツイベントで使われていますが、柱などは当時のまま。施設内にある、各競技の金メダリストを記した壁には、女子水泳の前畑選手など日本人の名前もいくつか並んでいます。
ベルリン中心部にある「トポグラフィー・オブ・テラー」という施設。ナチス時代にゲシュタポやSSなどの本部が置かれていた区画をいったん更地にして、これらの組織による非人道的行為を批判的に展示しています。こうした施設を見れば見るほど、日本との「歴史との向き合い方の違い」を痛感させられます。
ベルリン近郊にあるヴァンゼー会議の開かれた邸宅。ナチスのユダヤ人迫害は一足飛びにホロコーストに進んだわけでなく、いくつかの段階を経ていましたが、1942年のヴァンゼー会議は優先政策としての「絶滅」へと転換する重要な出来事でした。ここで重要な役割を演じたのが、ラインハルト・ハイドリヒとアドルフ・アイヒマン。
ポツダム会談が開かれた、ポツダムのツェツィリエンホーフ宮殿。スターリンとトルーマン、チャーチル(途中でアトリーと交代)の三巨頭が会談を行った会議場は、今も当時のままの円卓と椅子が保存されています。とても落ち着いた環境の場所でした。
ベルリン南部のツォッセン近郊、ヴュンスドルフにある、ドイツ陸軍の司令部施設「マイバッハ」の残骸。司令部や通信所を地下トンネルで繋いだ施設群で、今もロケットのような形状の防空シェルターや、崩落した施設のガレキが残っています。
ドイツ南東部の古都ドレスデン。古い建物が並んでいるように見えますが、実はこの都市は第二次大戦終了間際の1945年にイギリス空軍が実施した無差別爆撃によって破壊され、教会を含む美しい建造物は無残なガレキの山と化しました。戦後に再建され、現在は歴史を感じさせる街として多くの観光客が訪れています。
ドレスデンからチェコ領に入り、同国がドイツの保護領となっていた第二次大戦期に「テレージエンシュタット」と呼ばれたテレジーンを見学。ここは、ユダヤ人ゲットーとゲシュタポの刑務所、移送中のユダヤ人を一時収容する強制収容所などがあり、各施設はほとんど手を加えず当時のまま保存されています。
バイエルン北部の都市ニュルンベルクは、戦前にはナチスの党大会が行われた場所で、今も当時の遺構が残っています。これは大規模会場の一つ、ツェッペリン広場の観閲台で、当時は両脇にも柱が林立する勇壮な建造物でした。戦前戦中は観閲台上部にカギ十字が付いていましたが、占領した米軍が爆破しました。
ツェッペリン広場から、西に1.3kmほどの場所にある公園。当時は「ルイトポルトアリーナ」という式典場で、見る者を圧倒するようなナチス党大会での兵士の整列はここで行われました。当時の建造物はほとんど取り壊され、唯一残るのは「戦没者記念堂(エーレンハレ)」という小さい廟ですが、きちんと手入れされておらず、周囲にゴミが散乱しているのに驚きました。
ドイツのニュルンベルクから、車で南東に2時間40分ほど走り、オーストリアとの国境を越えてすぐのブラウナウ(・アム・イン)という街にある、ヒトラーの生家。一時、取り壊しが決定されましたが、社会福祉関係の用途で存続することに。周囲の街並みは綺麗ですが、この建物だけは一階部分が薄汚れた感じになっています。
オーストリアのブラウナウの南東、つまりザルツブルクの東部一帯に広がる山と湖の連なる地域は「ザルツカンマーグート」と呼ばれていますが、その一帯にある、アルタウッセの岩塩坑。『歴史群像』誌第145号の記事でも触れたように、ここはヒトラーが自分の美術館用にコレクションしていた美術品を第二次大戦末期に秘匿していた場所で、現在ウィーンの美術史美術館にあるフェルメールの「絵画芸術」もその一つでした。事前にネットで予約しておけば、内部を見学できます。小さいトロッコが一台走る狭いトンネルを、延々と歩いて山の奥へ入っていきます。
ベルヒテスガーデンは、オーストリアのザルツブルクから南西に車で一時間足らずの場所にあるドイツ南東部の高原の街ですが、その東方、オーバーザルツベルクと呼ばれる一帯の山に、かつてヒトラーが愛用した山荘(ベルクホーフ)の遺構があります。戦後、この場所がナチス支持者の聖地となることを避けるため、山荘の建物は解体されましたが、土台のコンクリートは今も残っています。雑木林の中にあり、やや見つけにくい場所。すぐ近くには「オーバーザルツベルク現代史研究所」という、ヒトラーとナチス(国家社会主義)時代を批判的に検証する小さな博物館もあります。
ミュンヘン新市庁舎の少し北にある、将軍廟(フェルトヘルンハレ)。バイエルンの名将を祀る廟として19世紀に作られましたが、ナチス時代には死亡したナチ活動家の慰霊碑が追加され、横を通る市民にも敬礼が強制されました。ある種、靖国神社的な場所だったと言えますが、敗戦と共にナチスの価値観に基づく慰霊碑等は全部撤去されました。
おそらく日本で一番有名な南ドイツの観光名所・ノイシュヴァンシュタイン城。バイエルンの若き国王が道楽で建てたかのようなイメージがありますが、当時のバイエルン王国が置かれた境遇を知れば、もう少し複雑な構図も見えてきます。第二次大戦末期には、ここにもナチスの所有する大量の美術品が秘匿されました。
ミュンヘン西方約50キロのランツベルクにある、ランツベルク刑務所。1923年のミュンヘン一揆が失敗した後、ヒトラーはここに収監され、『わが闘争』の口述筆記もここで行われました。現在も刑務所として使用されています。
今回のドイツ・チェコ・オーストリア旅行では、三日目からレンタカーを借りて移動しました。今回の相棒はホンダのシビック。私の年代ではコンパクトな大衆車のイメージがある車名ですが、今どきのシビックはこんなにスポーティーで速くて、ベルリンからミュンヘン空港までの2000キロを快適に走破してくれました。アウトバーンでは、空いていると150〜170kmで巡航でき、この旅での最高速度は190kmでした。
ということで、非常に密度の濃い、10泊12日の充実した旅行でした。旅先で学んだこと、考えたことは、今後のいろいろな仕事に活かしていけたらと思います。
来月は、朝日文庫から『[増補版]戦前回帰』が発売される予定です。これは、三年前に学研から刊行した『戦前回帰』の四章に加え、この三年間で起きた出来事の中から「伊勢志摩サミットと政教分離」「天皇の生前退位」「教育勅語の教育現場への復活容認」などを取り上げた第五章を加筆しました。こちらも、発売日が決まり次第、改めて内容などを告知します。
【おまけ】
現代史関係の重い場所ばかりを連日見て回った旅でしたが、それだけでは精神が持たないということもあり、合間に二つの楽しみを挟みました。
一つは、フェルメールをはじめとする美術品の鑑賞で、ベルリンとドレスデンの絵画館で名画の数々を堪能しました。
特にドレスデンには、第二次大戦後の一時期ソ連に持って行かれたフェルメールとラファエロがありますが、ヴェネチアの画家カナレットの甥であるベルナルド・ベロットのコレクションが充実していたのも予想外の収穫でした。
もう一つは、ビールと地元料理で、今回のルートにはチェコ西部のプルゼニ(ピルゼン)とドイツ南部のミュンヘンという、ビール好きの二大聖地を含めたこともあり、本場のビールをたっぷり味わいました。
ピルゼンは、ピルスナーの発祥地で、代表的なブランドは「ピルスナー・ウルケル」。ハーブ入りバターを載せたポークステーキも絶品でした。
ドイツ南部、かつてのバイエルン王国の首都ミュンヘンは、白ビールの本場で、旅行中は時間とお金を節約するためレストラン以外で食事を済ませることが多かったですが、ここでは話が別。滞在二日目の晩に、電車でミュンヘン中心部にある白ビールの有名ブランド・フランツィスカーナー直営店で、シュヴァイネハクセ(豚のスネ肉のロースト)と一緒にいただきました。
こちらは滞在最終日の夕食。ベルリンからミュンヘンまで、あちこち巡った旅の最後がランツベルク刑務所というのは哀しいので、いったんホテルに車を置き、再度ミュンヘン中心部へ。同じく白ビールの有名ブランド・パウラーナー直営店で白ビールと白アスパラ(ドイツの春の風物詩)のスープ、シュヴァイネブラーテン(豚ロースト)を堪能しました。
まず、前回の記事で告知した新刊『1937年の日本人』(朝日新聞出版)が、4月20日に発売となりました。80年前の日本社会がどう変わって行ったのか、当時の日本人の目線に寄り添いながら、日々少しずつ進む空気の変化を丁寧に振り返る内容です。
最終章では、帝国議会(国会)での国家総動員法の審議中に起きた、佐藤賢了中佐の「黙れ」暴言事件も、前後の経緯を含め「起こるべくして起きた事件」として紹介しています。最近起きた自衛隊三佐の行動とも通底する面があると思います。
次に、『歴史群像』(学研)6月号が、5月7日に発売となりました。
今回の私の担当記事は「中近東諸国と第二次大戦」で、同戦争期にイラク、シリア、イラン、パレスチナ等で起きた政治と軍事の戦いについて、俯瞰的に解説しています。英仏対ドイツ、英仏対ソ連、英対イラク、英対仏、英ソ対イラン等、敵味方が頻繁に入れ替わりました。現在の中東情勢に、影を落としている部分もあります。
そして7月6日発売予定の『歴史群像』次号(通巻150号記念号)では、2012年の創刊20周年記念号(8月号)に続き、厚紙のコマとカラーマップでプレイするボードゲームが付録で付く予定です。
今回もゲームデザインとアートワーク、ルール編集を私が担当しました。2人用の「モスクワ攻防戦」と1人用の「バルジの戦い」です。前回は「日本海軍特集」で「ミッドウェー海戦」と「日本海海戦」のコンボでしたが、今回は「ドイツ陸軍特集」ということで、この組み合わせになりました。
ゲームマップは、こんな感じです。詳しいゲームの内容については、次の機会に改めて紹介します。
さて、4月9日から4月20日まで、取材を兼ねた旅行でドイツとチェコ、オーストリアに行ってきました。今回はまずベルリンで四泊し、三日目からはレンタカーを借りて、ザクセンハウゼン、ヴァンゼー、ポツダム、ヴュンスドルフ、ドレスデン、テレジーン(チェコ)、プルゼニ(同)、ニュルンベルク、ブラウナウ(オーストリア)、バートアウスゼー(同)、アルタウッセ(同)、ハルシュタット(同)、ザルツブルク(同)、ベルヒテスガーデン、ミュンヘン、ダッハウ、ノイシュヴァンシュタイン城、ランツベルクなどの歴史的な場所を見て回りました。
ドイツ現代史に関心のある人なら、上の地名の羅列を見て、旅行のメインテーマを大体推測できるかと思いますが、ドイツ国民の過去との向き合い方と日本国民のそれとを比較すると、ドイツが理想だとは言わないにせよ、やはり大きな違いがあると実感しました。
ベルリンの絵画館のそばにある「ドイツ抵抗記念センター」という博物館のある建物。ここに面した道「シュタウフェンベルク通り」は、第二次大戦期には「ベンドラー通り」という名で、ドイツ国防軍や陸軍国内軍などの中枢機関が置かれ、第二次大戦末期には、軍部の反ヒトラー運動の拠点として機能しました。
ドイツ現代史で重要な舞台となった国会(連邦議会)議事堂(ライヒスターク)。ヒトラーとナチスが独裁体制を固める際に利用されたのが1933年の「共産主義者による国会議事堂放火事件」で、ヒトラーとナチス体制が終焉を迎えた1945年には、ベルリンを征服したソ連軍兵士がこの国会議事堂の屋根にソ連の赤い国旗を掲げました。
「ヨーロッパで虐殺されたユダヤ人のための記念碑」。単に四角い石が並ぶだけに見えますが、中央で地面が下がっており、画一的な石の間を歩くと、アウシュヴィッツで画一的なバラックの間を歩いた時と同じ感覚に襲われて衝撃を受けました。上を見上げても空を石が挟み込む圧迫感。これは凄い記念碑だと思いました。
「ヨーロッパで虐殺されたユダヤ人のための記念碑」は、かつてヒトラーの総統官房があった区画から、小さい交差点を挟んだ対角線上にあります。ヒトラーが1945年に自殺し、死体がガソリンで焼却された総統官房があった一帯は、今では普通の駐車場や集合住宅になっています。
ベルリンの西部にある、オリンピック競技場。1936年のベルリン五輪のために建設されたメイン競技場で、屋根やフィールドは改修され、今も大きなスポーツイベントで使われていますが、柱などは当時のまま。施設内にある、各競技の金メダリストを記した壁には、女子水泳の前畑選手など日本人の名前もいくつか並んでいます。
ベルリン中心部にある「トポグラフィー・オブ・テラー」という施設。ナチス時代にゲシュタポやSSなどの本部が置かれていた区画をいったん更地にして、これらの組織による非人道的行為を批判的に展示しています。こうした施設を見れば見るほど、日本との「歴史との向き合い方の違い」を痛感させられます。
ベルリン近郊にあるヴァンゼー会議の開かれた邸宅。ナチスのユダヤ人迫害は一足飛びにホロコーストに進んだわけでなく、いくつかの段階を経ていましたが、1942年のヴァンゼー会議は優先政策としての「絶滅」へと転換する重要な出来事でした。ここで重要な役割を演じたのが、ラインハルト・ハイドリヒとアドルフ・アイヒマン。
ポツダム会談が開かれた、ポツダムのツェツィリエンホーフ宮殿。スターリンとトルーマン、チャーチル(途中でアトリーと交代)の三巨頭が会談を行った会議場は、今も当時のままの円卓と椅子が保存されています。とても落ち着いた環境の場所でした。
ベルリン南部のツォッセン近郊、ヴュンスドルフにある、ドイツ陸軍の司令部施設「マイバッハ」の残骸。司令部や通信所を地下トンネルで繋いだ施設群で、今もロケットのような形状の防空シェルターや、崩落した施設のガレキが残っています。
ドイツ南東部の古都ドレスデン。古い建物が並んでいるように見えますが、実はこの都市は第二次大戦終了間際の1945年にイギリス空軍が実施した無差別爆撃によって破壊され、教会を含む美しい建造物は無残なガレキの山と化しました。戦後に再建され、現在は歴史を感じさせる街として多くの観光客が訪れています。
ドレスデンからチェコ領に入り、同国がドイツの保護領となっていた第二次大戦期に「テレージエンシュタット」と呼ばれたテレジーンを見学。ここは、ユダヤ人ゲットーとゲシュタポの刑務所、移送中のユダヤ人を一時収容する強制収容所などがあり、各施設はほとんど手を加えず当時のまま保存されています。
バイエルン北部の都市ニュルンベルクは、戦前にはナチスの党大会が行われた場所で、今も当時の遺構が残っています。これは大規模会場の一つ、ツェッペリン広場の観閲台で、当時は両脇にも柱が林立する勇壮な建造物でした。戦前戦中は観閲台上部にカギ十字が付いていましたが、占領した米軍が爆破しました。
ツェッペリン広場から、西に1.3kmほどの場所にある公園。当時は「ルイトポルトアリーナ」という式典場で、見る者を圧倒するようなナチス党大会での兵士の整列はここで行われました。当時の建造物はほとんど取り壊され、唯一残るのは「戦没者記念堂(エーレンハレ)」という小さい廟ですが、きちんと手入れされておらず、周囲にゴミが散乱しているのに驚きました。
ドイツのニュルンベルクから、車で南東に2時間40分ほど走り、オーストリアとの国境を越えてすぐのブラウナウ(・アム・イン)という街にある、ヒトラーの生家。一時、取り壊しが決定されましたが、社会福祉関係の用途で存続することに。周囲の街並みは綺麗ですが、この建物だけは一階部分が薄汚れた感じになっています。
オーストリアのブラウナウの南東、つまりザルツブルクの東部一帯に広がる山と湖の連なる地域は「ザルツカンマーグート」と呼ばれていますが、その一帯にある、アルタウッセの岩塩坑。『歴史群像』誌第145号の記事でも触れたように、ここはヒトラーが自分の美術館用にコレクションしていた美術品を第二次大戦末期に秘匿していた場所で、現在ウィーンの美術史美術館にあるフェルメールの「絵画芸術」もその一つでした。事前にネットで予約しておけば、内部を見学できます。小さいトロッコが一台走る狭いトンネルを、延々と歩いて山の奥へ入っていきます。
ベルヒテスガーデンは、オーストリアのザルツブルクから南西に車で一時間足らずの場所にあるドイツ南東部の高原の街ですが、その東方、オーバーザルツベルクと呼ばれる一帯の山に、かつてヒトラーが愛用した山荘(ベルクホーフ)の遺構があります。戦後、この場所がナチス支持者の聖地となることを避けるため、山荘の建物は解体されましたが、土台のコンクリートは今も残っています。雑木林の中にあり、やや見つけにくい場所。すぐ近くには「オーバーザルツベルク現代史研究所」という、ヒトラーとナチス(国家社会主義)時代を批判的に検証する小さな博物館もあります。
ミュンヘン新市庁舎の少し北にある、将軍廟(フェルトヘルンハレ)。バイエルンの名将を祀る廟として19世紀に作られましたが、ナチス時代には死亡したナチ活動家の慰霊碑が追加され、横を通る市民にも敬礼が強制されました。ある種、靖国神社的な場所だったと言えますが、敗戦と共にナチスの価値観に基づく慰霊碑等は全部撤去されました。
おそらく日本で一番有名な南ドイツの観光名所・ノイシュヴァンシュタイン城。バイエルンの若き国王が道楽で建てたかのようなイメージがありますが、当時のバイエルン王国が置かれた境遇を知れば、もう少し複雑な構図も見えてきます。第二次大戦末期には、ここにもナチスの所有する大量の美術品が秘匿されました。
ミュンヘン西方約50キロのランツベルクにある、ランツベルク刑務所。1923年のミュンヘン一揆が失敗した後、ヒトラーはここに収監され、『わが闘争』の口述筆記もここで行われました。現在も刑務所として使用されています。
今回のドイツ・チェコ・オーストリア旅行では、三日目からレンタカーを借りて移動しました。今回の相棒はホンダのシビック。私の年代ではコンパクトな大衆車のイメージがある車名ですが、今どきのシビックはこんなにスポーティーで速くて、ベルリンからミュンヘン空港までの2000キロを快適に走破してくれました。アウトバーンでは、空いていると150〜170kmで巡航でき、この旅での最高速度は190kmでした。
ということで、非常に密度の濃い、10泊12日の充実した旅行でした。旅先で学んだこと、考えたことは、今後のいろいろな仕事に活かしていけたらと思います。
来月は、朝日文庫から『[増補版]戦前回帰』が発売される予定です。これは、三年前に学研から刊行した『戦前回帰』の四章に加え、この三年間で起きた出来事の中から「伊勢志摩サミットと政教分離」「天皇の生前退位」「教育勅語の教育現場への復活容認」などを取り上げた第五章を加筆しました。こちらも、発売日が決まり次第、改めて内容などを告知します。
【おまけ】
現代史関係の重い場所ばかりを連日見て回った旅でしたが、それだけでは精神が持たないということもあり、合間に二つの楽しみを挟みました。
一つは、フェルメールをはじめとする美術品の鑑賞で、ベルリンとドレスデンの絵画館で名画の数々を堪能しました。
特にドレスデンには、第二次大戦後の一時期ソ連に持って行かれたフェルメールとラファエロがありますが、ヴェネチアの画家カナレットの甥であるベルナルド・ベロットのコレクションが充実していたのも予想外の収穫でした。
もう一つは、ビールと地元料理で、今回のルートにはチェコ西部のプルゼニ(ピルゼン)とドイツ南部のミュンヘンという、ビール好きの二大聖地を含めたこともあり、本場のビールをたっぷり味わいました。
ピルゼンは、ピルスナーの発祥地で、代表的なブランドは「ピルスナー・ウルケル」。ハーブ入りバターを載せたポークステーキも絶品でした。
ドイツ南部、かつてのバイエルン王国の首都ミュンヘンは、白ビールの本場で、旅行中は時間とお金を節約するためレストラン以外で食事を済ませることが多かったですが、ここでは話が別。滞在二日目の晩に、電車でミュンヘン中心部にある白ビールの有名ブランド・フランツィスカーナー直営店で、シュヴァイネハクセ(豚のスネ肉のロースト)と一緒にいただきました。
こちらは滞在最終日の夕食。ベルリンからミュンヘンまで、あちこち巡った旅の最後がランツベルク刑務所というのは哀しいので、いったんホテルに車を置き、再度ミュンヘン中心部へ。同じく白ビールの有名ブランド・パウラーナー直営店で白ビールと白アスパラ(ドイツの春の風物詩)のスープ、シュヴァイネブラーテン(豚ロースト)を堪能しました。