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2009年2月8日 [その他(戦史研究関係)]

だいぶ更新が滞ってしまいましたが、先週は一週間すべて起きている時間は文庫本『ドイツ名将列伝』の校正(初校)でした。今回は、文章の推敲に加えて、膨大な記載情報(生没年月日、昇進履歴、第二次大戦中の役職一覧、主な受勲など)のチェックという作業の比重が大きく、寝ても醒めても首に騎士十字章をつけた人たちの姿が頭から離れませんでした。陸軍だけで508ページ(245人)、空軍と海軍、武装親衛隊を入れると全300人で684ページと、前作「詳解 西部戦線全史」(本文のみで622ページ)をさらに上回るボリュームとなりましたが、今日の夕方、ようやく全て完了して宅急便で(封筒には到底入らないのでAMAZONの箱に入れて)学研さんに返送しました。

今日は疲れているので、軽く触れるだけにしますが、今回の仕事では(大木毅師匠にいろいろご教示やヒントをいただいたこともあり)手がけた私自身も、大変勉強になる点が多々ありました。知識面での収穫とは別に、将官の足跡を追跡していて特に印象に残ったのは、かなり多くのドイツ軍将官が、戦争の負けが見えてきた段階で、敗戦後の自国が進むべき道を具体的にイメージしていたらしいということでした。

部下の将兵とドイツ市民の損失を最低限に抑えることを重視したベルリン最終戦のハインリーチやマントイフェル、ブッセの三人をはじめ、孤立する前にクリミア守備隊を救おうとしたイエネッケ(彼自身スターリングラード包囲戦で九死に一生を得た)や、敗戦後のドイツで必要になるからとルール工業地帯の破壊命令を拒絶したモーデルなどなど…。1944年7月の時点でヒトラーに和平を提言して西方総軍司令官を罷免されたルントシュテットや、ヒトラーの誤解から同司令官職を罷免された後、やはり和平を進言するヒトラー宛の遺書を残して自決したクルーゲなども、目先の戦争の勝ち負けという結果の「先」にある、戦後のドイツを見据えた判断を下していたと言えます。

シミュレーション・ゲームでは、とりあえずサドンデス負けしない限りは劣勢でも戦争を続けるパターンになりますが、このあたりが現実の戦争とシミュレーション・ゲームの大きな違いですね(個々の戦争が全体の一部であるようなゲームは別ですが)。ただし、同時期の日本軍の統帥部は、かなりシミュレーション・ゲーム的な形で実際の戦争を指導していたようですが。

残った航空ユニットに全滅覚悟で低比率攻撃を繰り返し実行させたり、レイテ島に取り残されて生還の希望を断たれた兵士に向かって「自給自戦、永久抗戦」などという鬼のような命令を下すのは、語弊を承知で(対象をシミュレーション・ゲーマー限定として)言えば、かなり「ゲーム的」な発想です。ユニットの存在意義は、ゲームに敗北した瞬間に消えてしまうわけで、当時の日本軍プレイヤーはゲーム(戦争)が終わった後のことなどは考えないのですね。

3月発売の『歴史群像』に書いたヴィシー政府の話とも重なるのですが、戦争の経験が豊富なドイツやフランスの国民は、一つの戦争で敗北しても必要以上に取り乱したりせず、冷静に「戦後の新秩序」でどのようなポジションを占めるべきかという方向へと、思考を切り替える術に長けていたのかもしれません。もっとも、ヒトラー(厳密にはドイツ人ではないですが)とその崇拝者の人たちは、やはり「ゲームに負けたら後のことはどうでもいい」という思考に支配されていたようですけれど。

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元帥なのに大佐(名誉連隊長)の制服を好んで着用したこの人は、英語のミステリ小説の大ファンでした。
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作戦級の僕

こんにちは。むかし「シミュレイター」で、高梨俊一氏が「歴史上のどんな軍司令官も、一般的なウォーゲーマーほどには、自軍の損害に鈍感ではない」と、書かれていたと記憶します。

弱いユニットを、足止め部隊として使い捨てにしたり、ダメモトで退却不可能な場所に篭らせて、ポイント稼ごうとした経験は、かくいう私もあります(さすがに、戦いを有利に進めるからと、自軍ユニットで別の自軍ユニットを、踏み潰したことはありませんが・・・・)。

多くのゲームでは、勝利判定の時、自軍の残りユニット数が影響するので、無駄に死なせると、負ける確率が高くなります。しかし、ポイントを取るために部隊を犠牲にするのは、けっこうありますね。とくにソ連軍など、部隊の価値などかなり軽い。

これが戦争の(おそろしい)現実だ、と言えば、それで終わるような話かもしれません。が、部下をなるべく生き残らせようとして、それでゲームに負けてしまったら、それは「対戦」としてはやっぱり悔しいと思うし・・・・

難しい問題ですね~。
by 作戦級の僕 (2009-02-10 17:10) 

Mas-Yamazaki

作戦級の僕さま: コメントありがとうございます。ご指摘のとおり、プレイヤーが自軍ユニットを(歴史上の状況から大きく離れた形で)粗末に扱わないようにするためには、勝利条件の設定作業が決定的な意味を持つと思います。現在製作中の「ベルリン陥落」では、ドイツ軍プレイヤーに史実と同様の「部隊を生き延びさせる」という目標を課題の1つとして与えるつもりですが、ソ連軍についても同種の制限を入れるべきかどうか、少し迷っているところです。

一般論として言えば、1941年から1943年までのソ連軍は、部隊の損失など度外視で作戦を命じていたので、そこで(戦線維持などの必要性によるもの以外で)部隊の温存を命じるのは、史実のソ連軍司令部が直面したジレンマとは異なる思考をプレイヤーに強いることになります。

ただし、1944年以降は部隊の損失軽減という要素も考えるようになっており(コルスン包囲戦で大穴が開いたドイツ軍の戦線から深入りせず、地雷原を作って包囲陣の殲滅を優先したように)、ベルリン攻勢でも以前のような「損害度外視」という極端な方針は採られてはいなかったので、ソ連軍の損害についても勝利条件に反映させるべきかどうか、考えているところです。

この話題は、ゲームデザインにおける「最終ターンの処理」という問題とも絡めて、もう少しいろいろ膨らませそうなので、第13号の「第6の視角」で少し書いてみようかと思います。
by Mas-Yamazaki (2009-02-11 20:58) 

NO NAME

>同時期の日本軍の統帥部は、かなりシミュレーション・ゲーム的な形で実際の戦争を指導していたようですが。
いや、たとえば海軍の最高統帥レベルではマリアナ沖海戦以後しばらくして終戦に向かう意思統一がほぼできあがったように思います(個人レベルにとどまったドイツなんかよりもむしろ良いかたちだったようにさえ思えます)。
学研の「歴史群像」で瀬戸利春氏が書かれた終戦工作の記事や太平洋戦史シリーズの「沖縄決戦」「本土決戦」などはご覧になられていますか?
by NO NAME (2009-03-03 00:49) 

とおりすがり3

上もわたしの書き込みです。
ドイツを「個人レベルにとどまった」というのは言い過ぎでした。「ワルキューレ」作戦とかありましたから。最高統帥部のほぼすべてではないという意味で「一部」くらいが適当でしょうか。
by とおりすがり3 (2009-03-03 00:59) 

Mas-Yamazaki

NO NAME(とおりすがり3)さま: コメントありがとうございます。学研さんのムック『沖縄決戦』も『本土決戦』は、私も記事を書かせていただいていますし、瀬戸さんの終戦工作も記事も読みました。ただ、例えば海軍が行っていた終戦工作というのは、国体護持と海軍(統帥部)の敗戦後の組織防衛が主眼であり、戦後の復興段階を想定して下級兵士や市民の人的損害を減らすという視点は見当たらないように思えます。

ドイツ軍の場合、軍司令官や軍集団司令官が、ヒトラーの自決に先立って総統(最高司令官)命令を公然と無視し、「ソ連軍の進撃を半日遅らせる」というような目先の戦争への対処ではなく、「ソ連軍ではなく米英連合軍に支配地域に逃れてそちらで投降させる=戦後まで生き延びさせて、新生ドイツ(国)復興の基盤とする」という戦後の状況への対処を優先した行動を、軍あるいは軍集団単位で(つまり戦略レベルで組織的に)行っています。日本軍の場合、軍司令官や方面軍司令官が、大本営の命令を無視して、兵士や市民の終戦後の生命確保を優先した行動をとったという話を、私は聞いたことがありません(それとは逆の事例はたくさん見つかるようですが)。

あるいは、ドイツ空軍が1945年4月7日にただ一度だけ実施した、戦闘機による米軍爆撃機に対する体当たり攻撃「ヴェアヴォルフ作戦」と、日本海軍が1944年10月21日から1945年8月15日の停戦受諾までの10か月にわたって繰り返し実施した、敵艦船への航空特攻作戦の対比も、両軍首脳部の根本的なレベルでの「人的資源の価値」に対する認識の違いを物語っているように思われます。
by Mas-Yamazaki (2009-03-05 16:12) 

とおりすがり3

ムック「沖縄決戦」には、少なくとも沖縄戦の頃には「敵艦船への航空特攻作戦」が戦争を早く終わらせるために行われたフシがあることが書かれていますよね?(アマゾンのレビューアーの少なくとも1人にはちゃんと伝わっているようです)。

>国体護持と海軍(統帥部)の敗戦後の組織防衛が主眼
これはそのとおりかとは思いますし、ミクロレベルで
>大本営の命令を無視して、兵士や市民の終戦後の生命確保を優先した行動をとった
ことはあまりなかったかもしれませんが(有為の人材を海軍にとって海兵団にプールした、といった話は聞いたことがありますが)、マクロレベルで見れば、戦争を早く終わらせることが「下級兵士や市民の人的損害を減らす」最良の手段ではないでしょうか?
であるならば(戦争の早期終結による人的損害の減少を含めた)トータルで見て、どちらの手段が「下級兵士や市民の人的損害を減らす」ことに貢献しているのか、軽々しく言い切れないように思います。
by とおりすがり3 (2009-03-09 14:06) 

永野

歴史群像最新号のヴィシー政権の記事を読みました。確かに、ドイツやフランスの戦争に対する認識度は、前大戦の日本とは大きく違ってる模様。フランスはソンム川の線を破られると敗北を覚悟し、パリ非武装宣言で人命やインフラの破壊を極力回避して、ドイツが勝った後の「戦後」の国際社会での有利な立ち位置を確保することに頭を切り替えた。対する日本はマリアナ失陥後も上層部の面子に固執するあまりだらだらと戦争を続け、原爆投下まで人命を捨て駒として使いつづけた・・・・。日本軍の感覚は「目的のためなら人命などいくら捨ててもいい」というスターリンに近いようですな。しかし人口の少ない国ではそれでは負けるわけで。
by 永野 (2009-03-09 17:13) 

Mas-Yamazaki

とおりすがり3さま: コメントありがとうございます。いわゆる「特攻作戦」が執拗に実施された背景の一つとして、決裁者としての天皇に「もう日本の勝ち目はない」ことを認識していただき、終戦の御聖断を下していただくという意図があったのではないかという論点は、過去に瀬戸さんと電話で何度もお話したことがあり、私も(日本が戦争継続から終戦という段階に移行するための方策として)その可能性はあったと認識しています。ただ、そのような解釈(注記不要とは思いますが、現段階では一解釈レベルです)が正しいとするなら、「戦後の復興という局面における人的資源の価値」という面において、ドイツ軍と日本軍の間には大きな隔たりがあったという私の認識を、さらに強く裏付けることになると思うのですが、いかがでしょうか。

念のために付記させていただきますと、私の論点は「敗北が決定的となった戦争で、部下の生命を戦後まで可能な限り多く生き延びさせて国力回復の人的資源とする」視点が、日本の高級軍人に存在したか否かという問題であって、終戦工作や終戦意図の有無ではありません。ブログ本文では「当時の日本軍プレイヤーはゲーム(戦争)が終わった後のことなどは考えない」と書きましたが、やや言葉足らずでした。これは「当時の日本軍プレイヤーはゲーム(戦争)が終わった後まで人的資源(=ゲームにおけるユニット)を温存することなどは考えない」という意味でした。手持ちユニットを全部使い切って盤上からユニットがなくならないと、背後で観戦している「親方様」が投了してくれないから、攻撃側全滅承知でユニットにひたすら攻撃させ、ひたすら損耗させるというのが、上で触れた「特攻=敗北不可避のアピール」説の論旨かと思いますが、それなりに説得力のある見方だとは思います。もっとも、「親方様」が本心でどのようなお考えをお持ちだったかは、それこそ日記でも公開されない限り、深い謎のままということになりますが…。

「マクロレベルで見れば、戦争を早く終わらせることが『下級兵士や市民の人的損害を減らす』最良の手段」という見方には一理あると思います。しかし、その戦争を早く終わらせる手段として「下級兵士や市民の人的損害をわざと増やす(そしてその凄惨な現実を天皇に見せつける)」方策を敢えてとったのだという解釈は、本末転倒というか、最終的な目的の達成度という面において、いちじるしく説得力を欠くように思えます。なぜなら、そのような主張の前提として、特攻による兵員の損失がなければ最終的により悪い(より人的損失の多い)結果になったという論証が不可欠ではないかと思いますが、それに関する研究はまだ見たことがありません(もしどなたかが書かれていましたら、本や論文の題名などご教示いただければ幸いです)。「特攻の犠牲を梃子に戦争を終わらせ、国体を護持する」という解釈はそれなりに合理的(恐ろしい話ではありますが)だと思いますが、兵士の犠牲を代償として実行される「特攻」で「下級兵士や民間人の生命を救う」という解釈は、(前者があくまで仮説でしかないことも含めて)かなり無理のある論法だと思います。

終戦間際の日本政府と軍の指導部が、合理的な意思決定を自由に行える状況にはなかったことは事実ですが、その問題と「当時の戦争指導部に、戦後の復興という局面における人的資源の価値という視点が存在したかどうか」はまったく別問題ですし、当時の海軍指導部における公式記録には「特攻は『日本の敗北』という形で戦争を早く終わらせて下級兵士や市民の人的損害を減らす最良の手段と位置づけて行う」という主旨の発言や意思決定の記述は存在しないはずです。また、個人用無線機もないまま孤島に取り残された兵士は、戦争が終わっても戦闘停止の命令を受領することすらできないわけですし、小野田少尉のように戦争が終わったことを知らずに「戦い」を続けられたのは少数の幸運な人だけで、大多数の兵士や軍属は日本の敗北や復興と無関係に未開のジャングルを彷徨った挙句、故郷の家族を想いながら餓死や病死といった形で息絶え、腐敗した遺骸を虫や動物に食われるという悲惨な末路をたどったことはご存知のとおりです。

特攻という戦闘手段の10か月にわたる継続と、それに伴う人的損失の増大、そして南方の島々に取り残された下級兵士に対する「何があっても降伏せず死ぬまで戦え」という(彼らが捕虜となって生還し、戦後の復興で何がしかの役割を担うという可能性を完全に排除した)命令などを考えると、やはり当時の日本軍の指導部および個々の将官には、目先の勝ち負けという面子の先にある「国益」という観点から「戦後の復興という局面における人的資源の価値」を考慮する視点が完全に欠落していたと私は思うのですが、いかがでしょう。もちろん、以上の記述はすべて私の(現時点での)認識であり、それに賛同されない方がおられたとしても、私は自分の認識をその方に押し付けるつもりはありませんので、その点はご理解いただければ幸いです。
by Mas-Yamazaki (2009-03-10 19:32) 

Mas-Yamazaki

永野さま: コメントありがとうございます。各国軍の人命に対する感覚の違いを現代の価値判断基準に基づいて序列にすると、確かにスターリン時代のソ連と近いものがあるかもしれません(戦争当時の価値判断基準を是とする方は賛同されないかと思いますが)。そもそも、兵士にジュネーブ条約を教えず、敵軍の捕虜になるのは恥だからそうなる前に自殺(あるいは事実上それを意味する突撃)せよと教える組織であったため、当然下級兵士や軍属も他国の捕虜に対してジュネーブ条約で保障された権利を与えず、それがもとで戦後に戦犯裁判にかけられて絞首刑や禁固刑に処せられています。当時の「戦犯」の手記や証言を見ると、自分がなぜ裁判にかけられているのかということすら理解できていない場合も多かったようで、国際的な「戦争のルール」を教えられないまま戦争に動員された兵士や軍属の悲劇は、やはり心を重くするものがあります。

軍事作戦面で絶望的な窮地に陥った時、降伏ではなく自殺や自殺的突撃という選択肢を選ぶ割合が、他国の軍隊と比較して高かったという事実を、アメリカ人のロジックでルール化したのが、いわゆる「バンザイ突撃ルール」かと思いますが、当時の日本が「人命よりも価値の高い、崇高な理念のために戦った」と言えば、どれほどの人的損耗でも道義的に正当化できた社会であったのは確かなようです。現代でも、そういう社会は地球上にいくつか存在するようですね。
by Mas-Yamazaki (2009-03-10 19:54) 

とおりすがり3

論点の件、了解いたしました。

上記の論点とは別ということを前提に言わせていただければ、戦争を一刻も早く終わらせることこそが『下級兵士や市民の人的損害を減らす』抜本的な手段であるならば、投降先の変更などではなく、終戦工作(具体的には継戦を志向する政権の打倒を含むこともありえる)に全力を尽すべきではなかったか?、ということです。
で、結果的に日本海軍の中枢部は終戦工作にほとんど一丸となって動いた(東条内閣も打倒した)が、ドイツはそうではなかったですよね?、ということです。

by とおりすがり3 (2009-03-11 13:38) 

西条秀樹

高木惣吉らが進めた「海軍主導の和平工作」って、結局ほとんど効果なかったのでは? 東条内閣が総辞職してもさらに1年以上戦争続けてますし・・・・特攻隊員もその間に大勢死んでますし・・・・1945年7月26日のポツダム宣言も「政府としては重大な価値あるものとは認めず『黙殺』し、斷固戰争完遂に邁進する」とか言って無視したし・・・・結局は原爆投下とソ連参戦があってはじめて、ようやく「はい、負けました」と慌てて投了したわけでしょう・・・・私は戦後の「海軍善玉論」には懐疑的な認識を持っておりますゆえ、海軍主導の終戦工作が存在したことを理由に、特攻隊の犠牲を正当化するという一部の論説には非常に違和感をおぼえます。
by 西条秀樹 (2009-03-11 20:53) 

Mas-Yamazaki

とおりすがり3さま: コメントありがとうございます。ご指摘の件に関しましての(現段階での)私の認識は、上の (2009-03-10 19:32) のコメントに書きましたとおりですので、ご参照いただければ幸いです。
by Mas-Yamazaki (2009-03-13 18:25) 

Mas-Yamazaki

西条秀樹さま: コメントありがとうございます。「原爆投下とソ連参戦」というのは、第二次大戦末期における、日本政府・軍首脳部と連合国政府首脳のパーセプション・ギャップを考える上で、象徴的な意味を持つ出来事だったと思います。アメリカとソ連は、ポツダム宣言の段階で既に(第二次世界大戦という)「古いゲーム」の勝敗は決したと考え、(後に東西冷戦と呼ばれる)「新しいゲーム」をスタートしており、アメリカプレイヤーは第1ターンに「原爆二個の示威的投下」、ソ連プレイヤーは「連合国の日本打倒におけるソ連軍の直接的貢献という事実形成」というアクションを起こしていますが、日本プレイヤーはそうした状況転換を理解できず、まだ終わっていない「古いゲーム」の投了を言うべきかどうかで侃侃諤諤の議論を続けていました。

いわゆる「海軍主導の終戦工作」についての私の認識は、西条さまとほぼ同様です。実際には、「終戦工作」というよりは「終戦という決断を総意という形に持ち込むための政府と軍の上層部における状況づくり」であって、今風に言えば自民党が政策転換を行う際に派閥間で進める「党内の意思統一」という政局ネタ(従って政策内容の是非とは無関係)に近いものがあると思います。

最終的に、この終戦工作は「国体護持(天皇制の存続)」と「海軍の組織防衛(戦争の責任を東條と陸軍に押し付ける)」という、海軍上層部が重視していた二つの目標を達成し、その代償として大勢の下級兵士と民間人の生命を(終戦の遅延と特攻や玉砕などの命令により)失わせる結果となりましたが、兵士や民間人の生命の価値を軽視していたのは陸軍や海軍の高級軍人に限ったことではなく、当時の日本国内では当然のごとく受け入れられていた共通の価値判断基準であったと思われるので、私は道義的観点から「高級軍人だけ」を責めるつもりは全くなく、ただ「彼らにはそのような視点が欠落していた」と指摘するだけに留めています。
by Mas-Yamazaki (2009-03-13 18:50) 

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