2011年5月14日 [その他(テレビ番組紹介)]
今週はひさしぶりに静かな一週間でした。レトロスペクティブ第7弾『ウエストウォール』の最終校正も無事に終了し、あとは19日に商品が届くのを待つばかり。今回の表紙は、ネットではだいぶ前から公開していますが、原寸で見るとかなりインパクトあると思います。ご注文くださった方々は、ぜひご期待ください。
さて、前回の記事を書いた後、テレビ番組を2本、続けて観ました。だいぶ間が空いてしまいましたが、今回はその番組について少し書きます。
(画像はNHK公式ホームページより)
一本目は、午後9時からNHK-BSプレミアムで放送されていた『知られざる在外秘宝(1) 北斎漂流 謎のイスラエル・コレクション』。葛飾北斎の膨大な浮世絵コレクションが、なぜかイスラエルに存在する、ということで、ナチスに迫害されたヨーロッパのユダヤ人が、パレスチナに逃れた時に持ち出したのか、と思いましたが、実際はもう少し複雑なストーリーでした。
持ち出したのがユダヤ人の画商(ドイツ人)、というのは当たっていましたが、ヒトラーが政権をとった直後の国会放火事件で反ユダヤ主義がドイツに広まったのをきっかけに、この画商はコレクションと共にオランダへ亡命し、そこで終戦まで潜伏することに成功します。そして、戦後にイスラエルが建国した際、自分の死後に貴重なコレクションが、日本美術の評価が低下したヨーロッパで散逸するのを心配した彼は、それらを新生ユダヤ国家のイスラエルに寄贈することを決意しました。
このユダヤ人画商ティコティンが、初めて北斎の浮世絵を含む日本美術に触れたのは、第一次大戦当時のことで、場所は当時まだ独立を回復していなかったポーランドだったとか。プロイセン・ロシア・オーストリア=ハンガリーの三国に分割されていたポーランド人の中には、極東の日本が独自の文化を花開かせていることに勇気づけられ、独立回復を目指す精神的な支えと考えた人もいたそうです。それでティコティンも、若い国であるイスラエルの人々に、この絵を見せようとした、との話でした。
以前の記事でご紹介した、映画監督のアンジェイ・ワイダ監督も、第二次大戦中にドイツ占領下のポーランドで北斎の浮世絵を見て、大きな衝撃を受けたそうです。北斎とワイダ監督というのは、意外な組み合わせですが、美術品の流浪と戦争というのは、前々からずっと関心があって資料文献を集めているテーマで、いつか私なりに具体的な形にできればと考えています。
もう一本は、同じチャンネルで続きにやっていた、コンスタンティノス・コスタ=ガヴラス監督の映画『ミッシング』。妻と『北斎漂流』の感想を述べ合っていると、勝手に始まっていて、最初は観る予定はなかったのですが、冒頭で「監督:コスタ=ガヴラス」と出たので、また重たい社会派ドラマだろうと思って、そのまま観続けることにしました。
この監督の名前は、中学生の頃に『Z』という作品をテレビで観てショックを受けたことがあったので、記憶していました(今思えば、当時から「そっち系」に深い関心のある子供だったのかも)。『Z』は、ギリシャでの右派勢力による民主派大統領候補の暗殺がテーマで、『ミッシング』は南米チリでの右派勢力によるクーデターと、その発生時に現地で行方不明になったアメリカ人の捜索が筋書きの中心に置かれています。
どちらも実際に起きた事件を題材にしていて、描かれている世界での主人公(前者は大統領候補、後者は好奇心旺盛なアメリカ人の若者)の身に起こったことを知るため、家族や友人が聞き込みを重ねていく展開となります。食い違う証言に合わせて、同じ情景で異なる映像を何パターンも見せるという、この二本の映画でコスタ=ガヴラス監督が多用する手法は、独特の緊迫感に満ちていて、真相を知りたいという気持ちと、真実を知るのが怖いという家族の葛藤が非常にリアルに描かれていたと思います。
映画のテーマ選択だけを見れば、この監督は左翼的な思考の持ち主なのかな、と思いそうになります。しかし、実際には両作品とも、それほど単純な価値判断基準で一方を断罪するつくりにはなっておらず、『ミッシング』の最後で駐サンチャゴ(チリの首都)のアメリカ大使が、映画の主人公(若者の父親)に言い放つ言葉は、この日本を含めた現代の「先進国」に共通する、国際政治上の矛盾についての、鋭い警告になっています。
ベトナムやラオス、そしてチリなど、1970年代には多くの血が流れた国々も、私が訪れた21世紀にはそんな痕跡など人々の接し方からは感じられない、とても穏やかな国になっています。自分は恵まれた時代に、恵まれた国に生まれたなぁ、と、今までずっと思ってきましたが、今後もそうであってほしいと切に願わずにはいられません。
さて、前回の記事を書いた後、テレビ番組を2本、続けて観ました。だいぶ間が空いてしまいましたが、今回はその番組について少し書きます。
(画像はNHK公式ホームページより)
一本目は、午後9時からNHK-BSプレミアムで放送されていた『知られざる在外秘宝(1) 北斎漂流 謎のイスラエル・コレクション』。葛飾北斎の膨大な浮世絵コレクションが、なぜかイスラエルに存在する、ということで、ナチスに迫害されたヨーロッパのユダヤ人が、パレスチナに逃れた時に持ち出したのか、と思いましたが、実際はもう少し複雑なストーリーでした。
持ち出したのがユダヤ人の画商(ドイツ人)、というのは当たっていましたが、ヒトラーが政権をとった直後の国会放火事件で反ユダヤ主義がドイツに広まったのをきっかけに、この画商はコレクションと共にオランダへ亡命し、そこで終戦まで潜伏することに成功します。そして、戦後にイスラエルが建国した際、自分の死後に貴重なコレクションが、日本美術の評価が低下したヨーロッパで散逸するのを心配した彼は、それらを新生ユダヤ国家のイスラエルに寄贈することを決意しました。
このユダヤ人画商ティコティンが、初めて北斎の浮世絵を含む日本美術に触れたのは、第一次大戦当時のことで、場所は当時まだ独立を回復していなかったポーランドだったとか。プロイセン・ロシア・オーストリア=ハンガリーの三国に分割されていたポーランド人の中には、極東の日本が独自の文化を花開かせていることに勇気づけられ、独立回復を目指す精神的な支えと考えた人もいたそうです。それでティコティンも、若い国であるイスラエルの人々に、この絵を見せようとした、との話でした。
以前の記事でご紹介した、映画監督のアンジェイ・ワイダ監督も、第二次大戦中にドイツ占領下のポーランドで北斎の浮世絵を見て、大きな衝撃を受けたそうです。北斎とワイダ監督というのは、意外な組み合わせですが、美術品の流浪と戦争というのは、前々からずっと関心があって資料文献を集めているテーマで、いつか私なりに具体的な形にできればと考えています。
もう一本は、同じチャンネルで続きにやっていた、コンスタンティノス・コスタ=ガヴラス監督の映画『ミッシング』。妻と『北斎漂流』の感想を述べ合っていると、勝手に始まっていて、最初は観る予定はなかったのですが、冒頭で「監督:コスタ=ガヴラス」と出たので、また重たい社会派ドラマだろうと思って、そのまま観続けることにしました。
この監督の名前は、中学生の頃に『Z』という作品をテレビで観てショックを受けたことがあったので、記憶していました(今思えば、当時から「そっち系」に深い関心のある子供だったのかも)。『Z』は、ギリシャでの右派勢力による民主派大統領候補の暗殺がテーマで、『ミッシング』は南米チリでの右派勢力によるクーデターと、その発生時に現地で行方不明になったアメリカ人の捜索が筋書きの中心に置かれています。
どちらも実際に起きた事件を題材にしていて、描かれている世界での主人公(前者は大統領候補、後者は好奇心旺盛なアメリカ人の若者)の身に起こったことを知るため、家族や友人が聞き込みを重ねていく展開となります。食い違う証言に合わせて、同じ情景で異なる映像を何パターンも見せるという、この二本の映画でコスタ=ガヴラス監督が多用する手法は、独特の緊迫感に満ちていて、真相を知りたいという気持ちと、真実を知るのが怖いという家族の葛藤が非常にリアルに描かれていたと思います。
映画のテーマ選択だけを見れば、この監督は左翼的な思考の持ち主なのかな、と思いそうになります。しかし、実際には両作品とも、それほど単純な価値判断基準で一方を断罪するつくりにはなっておらず、『ミッシング』の最後で駐サンチャゴ(チリの首都)のアメリカ大使が、映画の主人公(若者の父親)に言い放つ言葉は、この日本を含めた現代の「先進国」に共通する、国際政治上の矛盾についての、鋭い警告になっています。
ベトナムやラオス、そしてチリなど、1970年代には多くの血が流れた国々も、私が訪れた21世紀にはそんな痕跡など人々の接し方からは感じられない、とても穏やかな国になっています。自分は恵まれた時代に、恵まれた国に生まれたなぁ、と、今までずっと思ってきましたが、今後もそうであってほしいと切に願わずにはいられません。
2011年2月11日 [その他(テレビ番組紹介)]
今日はひさしぶりにテレビ番組の話題です。takoba39714さんのブログ経由で、おもしろいテレビ番組批評のブログを拝見したので、ご紹介します。
妄想大河ドラマ
いくつかパラパラと読んでみましたが、私が強く同意できた記事がこれ。
『龍馬伝』第40回感想「対決!天パーVSモミアゲ」
『龍馬伝』については、このブログでも何度かご紹介しましたが、後期はほとんど触れずに終わってしまいました。前にも書いたかと思いますが、私は自分がポジティブな印象を受けた物事はブログで堂々と誉めますが、そうでないものはネガティブな記事にはせず、ただ触れずに済ませるという方式にしています。ということで、後期の『龍馬伝』も、前期から中期の群像劇が素晴らしい出来だったと感じた反動からか、後期の政局劇にはのめり込めず、最終回ももう少し主人公への愛情が感じられる締めくくりにしてもよかったのでは、と思いました(今回は少しだけ、残念に思った点を書きます)。
例えば、瀕死の中岡が「物干し台に這い出る」なんていう「史実」を忠実に描くくらいだったら、「想望」が流れる中で、長州の木戸、薩摩の西郷と小松、土佐の容堂と後藤、長崎の豪商三人組、そして土佐の坂本一家が、「龍馬死す」の報せを読んだ時の、それぞれの「表情」を描くとか…。せっかく演技力に優れた人ばかり揃えているのですから、各人の(史実での)立場や利害ともしっかり絡めた上で、龍馬の死という事実を各人がどう受け止めたか、錚々たる役者の「表情で見せる」形にしてもよかったのでは、と感じました。それが、長きにわたって演じてきた「主人公」への、愛情ではないのか、と。
それはともかく、後期は後期で見所が全然無かったかといえば、決してそうではなく、強烈な存在感で画面を充実させた俳優が何人もいました。特に印象に残っているのが、青木崇高演じるところの後藤象二郎。前期の「裏主役」が田中泯の吉田東洋様だとするなら、後期のそれはこの人だったのではないかと。吉田東洋の甥として出ていた頃は、常に変な汗をかいている小物感たっぷりの小悪党みたいな感じでしたが、上のリンク先の記事でも書かれている通り、この青木という俳優は広義の「役づくり」で、吉田東洋様に遜色ない威圧感と貫禄を醸し出していました。
私はこの俳優については、実はよく知らないのですが、昨年の年末に『龍馬伝』の総集編が放送された時、幕間の企画で青木崇高が、だらしない私服(すいません、私感です・笑)で登場人物の墓参りをするというパートがありました。そして、武市半平太の墓の前に来た時、突然顔を手で押さえて号泣し始めたこの人を見て、実在の歴史的人物を「本気で演じ切る」という、この人の役柄に対する覚悟のほどを強く感じました。武市をいじめていじめて、最後は切腹にまで追い込む後藤という役柄に「とことんなりきった」青木崇高という役者にとって、武市半平太の墓前に立つというのは、それほどに重いことだったのでしょう。
明け方の縁側で、主君の容堂と酒を酌み交わす場面も印象的でした(近藤正臣に負けていない存在感は、まだ30歳の若い俳優とは思えない)。上のリンク先ブログに「一年という長丁場で実在した人物を演じるというプレッシャーが、役者を成長させる。その成長が、役柄の成長とリンクして『いまここにしかない魅力』を発揮する。これが大河の醍醐味の一つです」という言葉がありますが、私もまったく同感です。
NHK公式ホームページの青木崇高インタビューページ
ちなみに、最近よく観ていたドラマは、同じNHKの『フェイク 京都美術事件絵巻』でしたが、残念なことにたった6回で終わってしまいました。まぁ、続編に含みを持たせたエンディングだったので、続きがそのうち始まるかもしれませんが。ドラマではありませんが、福山雅治と佐藤直紀のコンビが復活した『ホット・スポット』は、さすがに予算を潤沢に使っているだけあって、見応えありますね。アリクイが車に轢かれ、蟻塚がブルドーザーに壊されるシーンは、泣けました。
(画像はNHK公式ホームページより)
妄想大河ドラマ
いくつかパラパラと読んでみましたが、私が強く同意できた記事がこれ。
『龍馬伝』第40回感想「対決!天パーVSモミアゲ」
『龍馬伝』については、このブログでも何度かご紹介しましたが、後期はほとんど触れずに終わってしまいました。前にも書いたかと思いますが、私は自分がポジティブな印象を受けた物事はブログで堂々と誉めますが、そうでないものはネガティブな記事にはせず、ただ触れずに済ませるという方式にしています。ということで、後期の『龍馬伝』も、前期から中期の群像劇が素晴らしい出来だったと感じた反動からか、後期の政局劇にはのめり込めず、最終回ももう少し主人公への愛情が感じられる締めくくりにしてもよかったのでは、と思いました(今回は少しだけ、残念に思った点を書きます)。
例えば、瀕死の中岡が「物干し台に這い出る」なんていう「史実」を忠実に描くくらいだったら、「想望」が流れる中で、長州の木戸、薩摩の西郷と小松、土佐の容堂と後藤、長崎の豪商三人組、そして土佐の坂本一家が、「龍馬死す」の報せを読んだ時の、それぞれの「表情」を描くとか…。せっかく演技力に優れた人ばかり揃えているのですから、各人の(史実での)立場や利害ともしっかり絡めた上で、龍馬の死という事実を各人がどう受け止めたか、錚々たる役者の「表情で見せる」形にしてもよかったのでは、と感じました。それが、長きにわたって演じてきた「主人公」への、愛情ではないのか、と。
それはともかく、後期は後期で見所が全然無かったかといえば、決してそうではなく、強烈な存在感で画面を充実させた俳優が何人もいました。特に印象に残っているのが、青木崇高演じるところの後藤象二郎。前期の「裏主役」が田中泯の吉田東洋様だとするなら、後期のそれはこの人だったのではないかと。吉田東洋の甥として出ていた頃は、常に変な汗をかいている小物感たっぷりの小悪党みたいな感じでしたが、上のリンク先の記事でも書かれている通り、この青木という俳優は広義の「役づくり」で、吉田東洋様に遜色ない威圧感と貫禄を醸し出していました。
私はこの俳優については、実はよく知らないのですが、昨年の年末に『龍馬伝』の総集編が放送された時、幕間の企画で青木崇高が、だらしない私服(すいません、私感です・笑)で登場人物の墓参りをするというパートがありました。そして、武市半平太の墓の前に来た時、突然顔を手で押さえて号泣し始めたこの人を見て、実在の歴史的人物を「本気で演じ切る」という、この人の役柄に対する覚悟のほどを強く感じました。武市をいじめていじめて、最後は切腹にまで追い込む後藤という役柄に「とことんなりきった」青木崇高という役者にとって、武市半平太の墓前に立つというのは、それほどに重いことだったのでしょう。
明け方の縁側で、主君の容堂と酒を酌み交わす場面も印象的でした(近藤正臣に負けていない存在感は、まだ30歳の若い俳優とは思えない)。上のリンク先ブログに「一年という長丁場で実在した人物を演じるというプレッシャーが、役者を成長させる。その成長が、役柄の成長とリンクして『いまここにしかない魅力』を発揮する。これが大河の醍醐味の一つです」という言葉がありますが、私もまったく同感です。
NHK公式ホームページの青木崇高インタビューページ
ちなみに、最近よく観ていたドラマは、同じNHKの『フェイク 京都美術事件絵巻』でしたが、残念なことにたった6回で終わってしまいました。まぁ、続編に含みを持たせたエンディングだったので、続きがそのうち始まるかもしれませんが。ドラマではありませんが、福山雅治と佐藤直紀のコンビが復活した『ホット・スポット』は、さすがに予算を潤沢に使っているだけあって、見応えありますね。アリクイが車に轢かれ、蟻塚がブルドーザーに壊されるシーンは、泣けました。
(画像はNHK公式ホームページより)
2010年11月26日 [その他(テレビ番組紹介)]
今週の月曜日に放送されていた 『プロフェッショナル 仕事の流儀』 は、絵画修復家の方が主人公でした。横で見ていた絵描きの妻と私では、たぶん関心の対象がかなり違っていたんだろうという気がしますが、私がこの方のお話を聞いたり作業の内容を見ていて思ったのは、「ウォーゲーム・レトロスペクティブ」で古いゲームを新しい商品としてリニューアル出版する事業と似ているな、ということでした。
(画像はNHKホームページより)
http://www.nhk.or.jp/professional/2010/1122/index.html#b_cast
番組で語られた言葉の中で、特に印象に残ったのは「画家の技法、画家の内面を意識して、それを再現する」ことを目指す、ということと「作品は、どうして欲しいのか?」を考える、ということでした。以前に同番組で取り上げられていた、装丁家・鈴木成一さんの話とも通じるものがあるようです。来週放送予定のグラフィックデザイナー・佐藤卓さんの回も楽しみです。
お店で売られている「商品(パッケージ)」としてのゲームは、ルールブックとマップ、ユニット、チャート、サイコロ、そして箱または袋/封筒という、物理的存在の集合体です。しかし、例えば旧SPI社の 『バトル・フォー・スターリングラード』 のライセンス権を取得して、日本版を出そうとする時、ゲームの「存在」は、いったん形の無い、いわば「魂」のような「概念」の段階に戻っており、それをどのような形で最終的な「物理的存在」に仕上げる(戻す)のが良いか、ということを考えながら、日本語ルールやコンポーネントの製作作業に取り掛かるわけです。
お客さんの中には、オリジナル版(SPI版)と同じか、それに近い形での出版を望む方もおられます。しかし、過去にも同様の話を書いた記憶がありますが、私の手掛けてきた「ウォーゲーム・レトロスペクティブ」のシリーズでは、マップやユニットをオリジナル版と同じにすることよりも、製品となった時に「どういう形に仕上げたら、このゲームが持つ魅力や長所が最大限にゲーマーへと伝わるか」を意識して、製作作業を行ってきました。
もちろん、オリジナル版のコンポーネントが、前記のような目標を達成する上で「最善」と思われた時は、なるべくそれに近い形でアートワークのデザインを行いました(『バトル・フォー・スターリングラード』 のマップとユニットなど)。しかし、実際にプレイを重ねて、ゲームの魅力や長所を研究した後、オリジナル版の処理が最善ではないように思われた時には、より適切あるいは効果的と思われる、全く別の処理方法をとることもありました(『ゴールドバーグ版クルスク大戦車戦』 のユニットなど)。また、チャート類の中で、頻繁に参照するものは、可能な限りマップの余白に入れるなどの修正を加えたりもしました。
過去のゲームを生まれ変わらせるという仕事を含め、広義の「出版」という事業において、やはり大事なのは出版人がどうしたいか、よりも「ゲーム(作品)は、どうして欲しいのか」を誠実に熟考するという視点ではないか、という思いを、改めて感じました。自分の好きなようにアートワークをデザインできる立場になると、どうしても個人のエゴが表面に出てしまい、俺はこうしたい、という方向に傾いてしまいがちですが、あくまで「ゲーム(作品)の魅力や長所を引き出す」「ゲーム(作品)が持つ有形・無形の価値を可能な限り途中のロスなく、カスタマーに伝える」脇役に徹して仕事をするのが、最終的には良い結果に結びつくような気がします。
また、「画家の技法、画家の内面を意識して、それを再現する」という言葉との関連で言えば、ルールの不明点を明確化する時には「デザイナーの内面」に入り込む必要があり、それはそれで楽しい経験でした。明確化のためにルールの論理構造を分析する過程で「なるほど、このデザイナーは、こういうことを表現したくて、このルールを作ったのか」と気付くこともしばしばでした。
「ウォーゲーム・レトロスペクティブ」のシリーズは、次の 『ウエストウォール』 でいったん区切りとなり、その後については未定ですが、SPI社以外の古いゲームでも、いまだ魅力や長所が失われていないと思う作品はいくつかありますので、来年以降の課題として、ゆっくり考えてみようと思います。まずは、来年春以降に 『ウエストウォール』 が「どうして欲しいのか」を探る作業に取り組みます。
それにしても、我々が古典的な油絵や素描などの作品群を、当たり前のように目にしている美術館の裏側で、あれほど途方もない修復と保存の努力が重ねられていたとは…。「私は一七世紀のオランダ絵画が好きです」とか、つい気軽に言ってしまいますが、我々があの時代に生きた画家の作品を良好な状態で鑑賞できるのは、名も知らない無数の「修復職人」さんのお陰かと思うと、修復作業に携わっておられる方々に、改めて深い敬意を表したいと思いました。
さて、「出版」の事業とは目指すべき方向性やとるべき流儀も異なりますが、長らく続いてきたハードカバー本の執筆は、いよいよ “3 Laps to go” という最終段階です。最後まで気を抜かずに、良い本に仕上げたいと思います。興味のある方は、ぜひ楽しみにしていてください。
(画像はNHKホームページより)
http://www.nhk.or.jp/professional/2010/1122/index.html#b_cast
番組で語られた言葉の中で、特に印象に残ったのは「画家の技法、画家の内面を意識して、それを再現する」ことを目指す、ということと「作品は、どうして欲しいのか?」を考える、ということでした。以前に同番組で取り上げられていた、装丁家・鈴木成一さんの話とも通じるものがあるようです。来週放送予定のグラフィックデザイナー・佐藤卓さんの回も楽しみです。
お店で売られている「商品(パッケージ)」としてのゲームは、ルールブックとマップ、ユニット、チャート、サイコロ、そして箱または袋/封筒という、物理的存在の集合体です。しかし、例えば旧SPI社の 『バトル・フォー・スターリングラード』 のライセンス権を取得して、日本版を出そうとする時、ゲームの「存在」は、いったん形の無い、いわば「魂」のような「概念」の段階に戻っており、それをどのような形で最終的な「物理的存在」に仕上げる(戻す)のが良いか、ということを考えながら、日本語ルールやコンポーネントの製作作業に取り掛かるわけです。
お客さんの中には、オリジナル版(SPI版)と同じか、それに近い形での出版を望む方もおられます。しかし、過去にも同様の話を書いた記憶がありますが、私の手掛けてきた「ウォーゲーム・レトロスペクティブ」のシリーズでは、マップやユニットをオリジナル版と同じにすることよりも、製品となった時に「どういう形に仕上げたら、このゲームが持つ魅力や長所が最大限にゲーマーへと伝わるか」を意識して、製作作業を行ってきました。
もちろん、オリジナル版のコンポーネントが、前記のような目標を達成する上で「最善」と思われた時は、なるべくそれに近い形でアートワークのデザインを行いました(『バトル・フォー・スターリングラード』 のマップとユニットなど)。しかし、実際にプレイを重ねて、ゲームの魅力や長所を研究した後、オリジナル版の処理が最善ではないように思われた時には、より適切あるいは効果的と思われる、全く別の処理方法をとることもありました(『ゴールドバーグ版クルスク大戦車戦』 のユニットなど)。また、チャート類の中で、頻繁に参照するものは、可能な限りマップの余白に入れるなどの修正を加えたりもしました。
過去のゲームを生まれ変わらせるという仕事を含め、広義の「出版」という事業において、やはり大事なのは出版人がどうしたいか、よりも「ゲーム(作品)は、どうして欲しいのか」を誠実に熟考するという視点ではないか、という思いを、改めて感じました。自分の好きなようにアートワークをデザインできる立場になると、どうしても個人のエゴが表面に出てしまい、俺はこうしたい、という方向に傾いてしまいがちですが、あくまで「ゲーム(作品)の魅力や長所を引き出す」「ゲーム(作品)が持つ有形・無形の価値を可能な限り途中のロスなく、カスタマーに伝える」脇役に徹して仕事をするのが、最終的には良い結果に結びつくような気がします。
また、「画家の技法、画家の内面を意識して、それを再現する」という言葉との関連で言えば、ルールの不明点を明確化する時には「デザイナーの内面」に入り込む必要があり、それはそれで楽しい経験でした。明確化のためにルールの論理構造を分析する過程で「なるほど、このデザイナーは、こういうことを表現したくて、このルールを作ったのか」と気付くこともしばしばでした。
「ウォーゲーム・レトロスペクティブ」のシリーズは、次の 『ウエストウォール』 でいったん区切りとなり、その後については未定ですが、SPI社以外の古いゲームでも、いまだ魅力や長所が失われていないと思う作品はいくつかありますので、来年以降の課題として、ゆっくり考えてみようと思います。まずは、来年春以降に 『ウエストウォール』 が「どうして欲しいのか」を探る作業に取り組みます。
それにしても、我々が古典的な油絵や素描などの作品群を、当たり前のように目にしている美術館の裏側で、あれほど途方もない修復と保存の努力が重ねられていたとは…。「私は一七世紀のオランダ絵画が好きです」とか、つい気軽に言ってしまいますが、我々があの時代に生きた画家の作品を良好な状態で鑑賞できるのは、名も知らない無数の「修復職人」さんのお陰かと思うと、修復作業に携わっておられる方々に、改めて深い敬意を表したいと思いました。
さて、「出版」の事業とは目指すべき方向性やとるべき流儀も異なりますが、長らく続いてきたハードカバー本の執筆は、いよいよ “3 Laps to go” という最終段階です。最後まで気を抜かずに、良い本に仕上げたいと思います。興味のある方は、ぜひ楽しみにしていてください。
2010年10月16日 [その他(テレビ番組紹介)]
今週は、ドイツで展覧会をする妻を週初めに関西国際空港へ送った後、家で1人静かに粛々と、学研さんのムック 『太平洋戦争 第9巻』 の担当記事3本の執筆に明け暮れていました。久しぶりに自炊したり早朝にゴミ捨てしたり、少し新鮮な気分ですが、この辺りも気温が急に下がってきたので、今はハードカバー本執筆の終盤に備えて、体調管理に気をつけています。
というわけで、比較的単調だった一週間も終わろうとしていますが、NHKの番組『プロフェッショナル』が今日から再スタートしたのは、私にとっては嬉しい出来事でした。松本人志の回は、昨日のコント番組との絡みもあり、多少「番宣臭」が漂っている感じで、早く地味な職種の職人さんに登場していただきたいと思います。あと、前に放送されたものでまた観たいのが結構あるんですが、DVD、もう少しお安くなりませんでしょうか、日本放送協会様。
画像は番組の公式ホームページより。
というわけで、比較的単調だった一週間も終わろうとしていますが、NHKの番組『プロフェッショナル』が今日から再スタートしたのは、私にとっては嬉しい出来事でした。松本人志の回は、昨日のコント番組との絡みもあり、多少「番宣臭」が漂っている感じで、早く地味な職種の職人さんに登場していただきたいと思います。あと、前に放送されたものでまた観たいのが結構あるんですが、DVD、もう少しお安くなりませんでしょうか、日本放送協会様。
画像は番組の公式ホームページより。
2010年9月30日 [その他(テレビ番組紹介)]
『龍馬伝』の佐藤直紀「想望」をきちんと聴きたくて、遂にサウンドトラックのCDを買ってしまいました。左の「Vol.2」に収録されています。右側は、同ドラマのいくつかの曲で歌っている女性ヴォーカリスト、リサ・ジェラルドのベスト盤。
先週の『龍馬伝』は、キャシャーンこと伊勢谷友介君演じる高杉晋作が「実写版ロンメル戦記」を想わせる電撃的な活躍で、なかなか楽しめました。敵の大群を捕虜にして、そのまま馬に乗ってさらに奥地へと進む高杉ロンメル。ヴュルテンベルク山岳兵大隊や第7装甲師団を率いていた時も、あんな感じだったんでしょうか。後藤象二郎と弥太郎のシーンも、新たなフェイズに入った感じで、奇妙な深み(笑)が出てきました。
「想望」という曲は、今まで『龍馬伝』の重要なシーンで何度も流れた曲なので、印象に残っているという方も多いかと思います。時代の変革期には、それぞれ胸に志を抱いた人間たちが正面からぶつかり合い、最終的には「天の配剤」によって落ち着くところへ落ち着くわけですが、その「配剤」に真っ向から立ち向かう人間の姿、哀しみも歓びも、周囲の人間が寄せる想いも、全てを内に抱えてなお自らの志を貫こうとする人間の姿を、この曲は見事に表現しているような気がします。心を鎮めて、無心になって聴くと、心が震え、洗われる、奇跡のような名曲です。
この「想望」の中で、美しい歌声を披露しているのが、リサ・ジェラルドという女性で、私はずっとサラ・ブライトマンとかナナ・ムスクーリといった系統のシンガーかと思っていましたが、1980年代に「デッド・カン・ダンス」のメンバーだったと知り、少し驚きました。このバンドは、4ADという当時の言葉で言う「オルタナティブ系」のバンドを抱えるレーベルに所属していて、当時中学・高校生だった私も「デッド・カン・ダンス」の曲は聴いたことがありました。ただ、私はどちらかと言えば、同じ4AD所属の「コクトー・トゥインズ」の方が好きで、今でも当時のアルバムを聴くことがあります。
コクトー・トゥインズの「Carolyn's fingers」。エリザベス・フレイザーのヴォーカルは、女神の歌声。
リサ・ジェラルドのベスト版は2007年の発売ですが、こちらも大変素晴らしい内容(『龍馬伝』とは違った方向性なので、好き嫌いはあると思います)で、これからヘビー・ローテーションで聴くことになりそうです。
テレビドラマで存在を知り、そのCDを買ったというのは、唐沢寿明・江口洋介の『白い巨塔』のエンディング・テーマに使われていた、ヘイリーの「アメイジング・グレース」以来でした。あの番組は、放映当時に毎週欠かさず観ていましたが、女性作家(原作・山崎豊子、脚本・井上由美子)の作品とは思えないほど内面がリアルに描かれた「男社会のエゴと嫉妬」、そして明確な正解の存在しない医療倫理の問題など、ストーリーがどれほど重い展開であっても、ヘイリーの澄んだ歌声とMotokoの凛とした写真で、全て洗い流されて心が浄化されるような、ある種の「精神的快感」がありました。
左がヘイリーの「アメイジング・グレース」。右のワーグナー「タンホイザー」も、作中で非常に印象的な使われ方をしていました。第1回の冒頭、そして後半の財前が自らの癌転移を確信した瞬間…。前に『白い巨塔』のDVDを借りて再度観たことがありますが、あれは1週間に1話が「適切な用法・用量」ですね。複数の回を続けて観てしまうと、ヘイリーの歌声でも完全に浄化し切れないことがわかりました(笑)。
おまけ
ソフトボール大のちびスイカを切ってみると…
ちゃんと赤くなっていました! スプーンで食べてみると、甘さ控え目のヘルシーな味わい。ちょうど半分が1人前のデザートになりました。自然の恵みに感謝。
2010年5月26日 [その他(テレビ番組紹介)]
今週も引き続き、原稿執筆とゲラ確認の日々ですが、毎週火曜日夜の『プロフェッショナル』がお休み期間ということで、仕事の刺激になる番組が無くなって寂しい思いをしています。そんな中で、先週の水曜だったか、NHKでお昼にやっている『スタジオパーク』という番組に、書家の紫舟(ししゅう)さんが出演されていました。少し時間が経ってしまいましたが、今日はその話題です。
(画像はNHKホームページより)
http://www.nhk.or.jp/tsubo/
この方は、『龍馬伝』の題字のほか、鯉が泳ぐ軌跡が墨文字になって立体的に回転するという、息を呑んで見とれてしまうような『美の壺』の美しい題字なども手掛けておられ、前々から興味を持っていたのですが、依頼を受けてから完成に至るまでのプロセスや、ひとつひとつの文字に込めた意味・想いなど、非常に興味深い話が満載で、久々に『プロフェッショナル』的な満足感を得ました。
(画像はNHKホームページより)
http://www9.nhk.or.jp/ryomaden/
例えば、『龍馬伝』の三文字だと、「馬」の下にある四つの点(足)のひとつが、右の線より外側にはみ出てしまっていますが、これは「枠に収まらない龍馬のエネルギーや躍動感」を表現したものだとか。また、「伝」の下の線が刀のように鋭く、それでいて先端は「止め」になっているのは、剣の達人でありながら「人を斬ったことがない」といわれる龍馬の「峰打ち」「寸止め」を表しているそうです。
NHKの『美の壺』公式サイトには、紫舟さんのページもありました。
http://www.nhk.or.jp/tsubo/shoka.html
下は、紫舟さんの公式サイト。
http://www.e-sisyu.com/
それにしても、そろそろ息切れする頃かと思いきや、『龍馬伝』の完成度の高さには、毎回唸らされます。前々回、黒光りするクワガタを山内容堂の手に這わせ、服に這わせ、そして茶をすする容堂の首筋に這わせる… あの演出には「参りました」と完全降伏です。そして、前回の武市半平太が妻・お富に初めて本心を打ち明けるシーン。もう表現する言葉もありません。要潤や大泉洋も、こんなに素晴らしい役者さんだったのかと見直しました(「どうでしょう」の大泉さんも好きですが)。毎回ベタ誉めで恐縮ですが、私が「お金(受信料)を払ってもいいから観たい」と思える番組は、現在のところ、これだけです。
(画像はNHKホームページより)
http://www.nhk.or.jp/tsubo/
この方は、『龍馬伝』の題字のほか、鯉が泳ぐ軌跡が墨文字になって立体的に回転するという、息を呑んで見とれてしまうような『美の壺』の美しい題字なども手掛けておられ、前々から興味を持っていたのですが、依頼を受けてから完成に至るまでのプロセスや、ひとつひとつの文字に込めた意味・想いなど、非常に興味深い話が満載で、久々に『プロフェッショナル』的な満足感を得ました。
(画像はNHKホームページより)
http://www9.nhk.or.jp/ryomaden/
例えば、『龍馬伝』の三文字だと、「馬」の下にある四つの点(足)のひとつが、右の線より外側にはみ出てしまっていますが、これは「枠に収まらない龍馬のエネルギーや躍動感」を表現したものだとか。また、「伝」の下の線が刀のように鋭く、それでいて先端は「止め」になっているのは、剣の達人でありながら「人を斬ったことがない」といわれる龍馬の「峰打ち」「寸止め」を表しているそうです。
NHKの『美の壺』公式サイトには、紫舟さんのページもありました。
http://www.nhk.or.jp/tsubo/shoka.html
下は、紫舟さんの公式サイト。
http://www.e-sisyu.com/
それにしても、そろそろ息切れする頃かと思いきや、『龍馬伝』の完成度の高さには、毎回唸らされます。前々回、黒光りするクワガタを山内容堂の手に這わせ、服に這わせ、そして茶をすする容堂の首筋に這わせる… あの演出には「参りました」と完全降伏です。そして、前回の武市半平太が妻・お富に初めて本心を打ち明けるシーン。もう表現する言葉もありません。要潤や大泉洋も、こんなに素晴らしい役者さんだったのかと見直しました(「どうでしょう」の大泉さんも好きですが)。毎回ベタ誉めで恐縮ですが、私が「お金(受信料)を払ってもいいから観たい」と思える番組は、現在のところ、これだけです。
2010年3月30日 [その他(テレビ番組紹介)]
今週は、シックス・アングルズ別冊第7号『ウエストウォール』のユニットと地図の制作を進めています。サンプル画像などの具体的な成果ができたら、随時このブログでご紹介します。
今日は、先日少しだけ触れたNHKの大河ドラマ「龍馬伝」について、ここまでの感想などを書いてみます。同じ局の「プロフェッショナル」が秋までお休みになってしまったので、毎週観る地上波のテレビ番組は、これだけになってしまいました。
実は、このドラマがスタートした時、無骨そうな坂本龍馬を、どちらかと言えば線の細い福山雅治が演じるとのことで、あまり興味が湧かず、スルーしていました(福山雅治という俳優が嫌いなわけではなく、フジで少し前にやっていた「ガリレオ」の主役や、「古畑任三郎」で板尾創路演じる同僚を殺してしまう犯人役もなかなか良かったと思います)。ところが、第3回か第4回くらいで、たまたま妻が観ていたので隣に座って少し鑑賞してみたところ、あっさりはまってしまいました。
まず最初に驚かされたのは、たぶん多くの人も感じていることだと思いますが、画面の濃淡というか「影」の使い方でした。従来のテレビのカメラは、俳優が汗をかくほど大量の光を必要とするらしいのですが、今回の撮影で使っている「プログレッシブカメラ(通称30Pカメラ)」という機材は、いろいろとネットで調べてみた限りでは、自然光に近い(さすがに屋内のシーンでは補助の光源が必要のようですが)明るさでも撮影可能で、焦点を合わせられる深度が深く、しかも比較的小型軽量なので、画質とアングルの両面で相当な自由度が得られているようです。
昨年末に同じくNHKでやっていた「外事警察」というドラマも、手持ちのカメラ(あれも恐らくプログレッシブカメラの一機種?)を多用した緊迫感のある仕上がりで、毎回楽しみにしていましたが、高性能のカメラを使うことで、自然の光と影を上手く生かした演出が可能になっているようです。例えば、龍馬が饅頭屋長次郎(大泉洋)から某事件の内幕話を聞く場面では、途中でスーッと福山雅治の顔に差す影が微妙に濃くなっていたと記憶していますが、内面の心の揺らぎを、影の濃さの変化で表現するというのは、乱暴な表現を使えば「映画的」な(従来のテレビドラマにはなかった)演出だという気がします。
もちろん、単なる技術的な向上だけでは、そんなに面白い番組にはならないわけで、やはりこのドラマが毎回高い視聴率を叩き出している最大の理由は、画面越しにエネルギーが伝わってくるほど全力で鎬を削りあう、存在感の強烈な俳優たちの演技力の総和だと思います。「最初はぼんやりしていた龍馬が、見聞を広めて少しずつ自己認識を深めていく」という成長過程の筋書きと関係があるのかどうかは不明ですが、福山雅治の演技は、回を重ねるごとにどんどん上手くなっている気がします。
このドラマの主役を引き受けるにあたり、福山雅治は「自分は演技力がないので、どうか上手い俳優で脇を固めて欲しい」という条件を出したそうですが、岩崎弥太郎(香川照之)、武市半平太(大森南朋)、坂本乙女(寺島しのぶ)をはじめ、実力のある俳優が発散する強烈な「演じるエネルギー」が、彼にとって大きな刺激となっているのは間違いないようです。特に香川照之の演技は、時に生じる笑ってしまうような滑稽さも含めて、年末に「坂の上の雲」の正岡子規役を見ても、物足りなさを感じるのではないかというほど、圧倒的だと感じました。
考証の正確さについては、事実関係の史実(と見なされていること)との相違などを幕末史に詳しい方がブログなどでいろいろと批判されていて、おそらくそれらの批判は正しいのだろうと思いますが、私は別にこの番組で幕末史を勉強しようという気はないので、それよりは「それぞれ一面で正しい思想や感情が正面からぶつかり合う」人間の葛藤がどれほど深く、多面的に描かれているかという、単純にドラマ的な興味でこの番組を楽しみにしています。広末涼子も、昔はただ可愛いだけの女の子という印象しかありませんでしたが、仕事でも実生活でもいろいろな経験を積んで、心の揺らぎを彼女にしかできない形で繊細に表現できる、深みのある女優さんになったなぁ、と感心しました。
いわゆるプロの「俳優・女優」以外でも、前回暗殺されてしまった吉田東洋(雨中の壮絶な襲撃と武市半平太が妻と静かに綺麗な絵を描いているシーンとのコントラストは、やっぱり「ゴッドファーザー」へのオマージュでしょうか?)を演じた舞踏家の田中泯や、飄々とした画家・河田小龍を演じたリリー・フランキー(第7回「遥かなるヌーヨーカ」で、弥太郎に「金持ちになる方法は、金持ちに聞け(笑)。…おまえも失格じゃ(爆笑)」と言い放ったシーンは最高でした)、溝渕広之丞のピエール瀧など、それぞれの役割を完璧に演じている脇役が何人もいて、次にどんな人がどんな役で出てくるのかという楽しみもあります。
ということで、結果的に番組をベタ誉めする内容の、つまらない記事になってしまいました(笑)。たぶん私とはまったく評価の違う人もいると思いますし、誰が観ても満足できる内容なのかどうかという判断は私にはできませんが、もし私と同じように「福山雅治の坂本龍馬」という疑問符でスルーされた方がおられたなら、ぜひ一度ご覧になられて、内容を確かめられるのがよいかと思います。
「ガリレオ」で福山雅治と組んで成功した福田靖の脚本を含め、大勢の役者とスタッフがいいものを作ろうと全力で取り組んでいる姿勢が、綺麗な画面(アジアの田舎を旅するとよく見かける街中のシーンでの土埃や、弥太郎の顔、服、髪、歯などのウェザリング塗装も含めて)からひしひしと伝わってくる良く出来た番組だと、私は感じました。
今日は、先日少しだけ触れたNHKの大河ドラマ「龍馬伝」について、ここまでの感想などを書いてみます。同じ局の「プロフェッショナル」が秋までお休みになってしまったので、毎週観る地上波のテレビ番組は、これだけになってしまいました。
実は、このドラマがスタートした時、無骨そうな坂本龍馬を、どちらかと言えば線の細い福山雅治が演じるとのことで、あまり興味が湧かず、スルーしていました(福山雅治という俳優が嫌いなわけではなく、フジで少し前にやっていた「ガリレオ」の主役や、「古畑任三郎」で板尾創路演じる同僚を殺してしまう犯人役もなかなか良かったと思います)。ところが、第3回か第4回くらいで、たまたま妻が観ていたので隣に座って少し鑑賞してみたところ、あっさりはまってしまいました。
まず最初に驚かされたのは、たぶん多くの人も感じていることだと思いますが、画面の濃淡というか「影」の使い方でした。従来のテレビのカメラは、俳優が汗をかくほど大量の光を必要とするらしいのですが、今回の撮影で使っている「プログレッシブカメラ(通称30Pカメラ)」という機材は、いろいろとネットで調べてみた限りでは、自然光に近い(さすがに屋内のシーンでは補助の光源が必要のようですが)明るさでも撮影可能で、焦点を合わせられる深度が深く、しかも比較的小型軽量なので、画質とアングルの両面で相当な自由度が得られているようです。
昨年末に同じくNHKでやっていた「外事警察」というドラマも、手持ちのカメラ(あれも恐らくプログレッシブカメラの一機種?)を多用した緊迫感のある仕上がりで、毎回楽しみにしていましたが、高性能のカメラを使うことで、自然の光と影を上手く生かした演出が可能になっているようです。例えば、龍馬が饅頭屋長次郎(大泉洋)から某事件の内幕話を聞く場面では、途中でスーッと福山雅治の顔に差す影が微妙に濃くなっていたと記憶していますが、内面の心の揺らぎを、影の濃さの変化で表現するというのは、乱暴な表現を使えば「映画的」な(従来のテレビドラマにはなかった)演出だという気がします。
もちろん、単なる技術的な向上だけでは、そんなに面白い番組にはならないわけで、やはりこのドラマが毎回高い視聴率を叩き出している最大の理由は、画面越しにエネルギーが伝わってくるほど全力で鎬を削りあう、存在感の強烈な俳優たちの演技力の総和だと思います。「最初はぼんやりしていた龍馬が、見聞を広めて少しずつ自己認識を深めていく」という成長過程の筋書きと関係があるのかどうかは不明ですが、福山雅治の演技は、回を重ねるごとにどんどん上手くなっている気がします。
このドラマの主役を引き受けるにあたり、福山雅治は「自分は演技力がないので、どうか上手い俳優で脇を固めて欲しい」という条件を出したそうですが、岩崎弥太郎(香川照之)、武市半平太(大森南朋)、坂本乙女(寺島しのぶ)をはじめ、実力のある俳優が発散する強烈な「演じるエネルギー」が、彼にとって大きな刺激となっているのは間違いないようです。特に香川照之の演技は、時に生じる笑ってしまうような滑稽さも含めて、年末に「坂の上の雲」の正岡子規役を見ても、物足りなさを感じるのではないかというほど、圧倒的だと感じました。
考証の正確さについては、事実関係の史実(と見なされていること)との相違などを幕末史に詳しい方がブログなどでいろいろと批判されていて、おそらくそれらの批判は正しいのだろうと思いますが、私は別にこの番組で幕末史を勉強しようという気はないので、それよりは「それぞれ一面で正しい思想や感情が正面からぶつかり合う」人間の葛藤がどれほど深く、多面的に描かれているかという、単純にドラマ的な興味でこの番組を楽しみにしています。広末涼子も、昔はただ可愛いだけの女の子という印象しかありませんでしたが、仕事でも実生活でもいろいろな経験を積んで、心の揺らぎを彼女にしかできない形で繊細に表現できる、深みのある女優さんになったなぁ、と感心しました。
いわゆるプロの「俳優・女優」以外でも、前回暗殺されてしまった吉田東洋(雨中の壮絶な襲撃と武市半平太が妻と静かに綺麗な絵を描いているシーンとのコントラストは、やっぱり「ゴッドファーザー」へのオマージュでしょうか?)を演じた舞踏家の田中泯や、飄々とした画家・河田小龍を演じたリリー・フランキー(第7回「遥かなるヌーヨーカ」で、弥太郎に「金持ちになる方法は、金持ちに聞け(笑)。…おまえも失格じゃ(爆笑)」と言い放ったシーンは最高でした)、溝渕広之丞のピエール瀧など、それぞれの役割を完璧に演じている脇役が何人もいて、次にどんな人がどんな役で出てくるのかという楽しみもあります。
ということで、結果的に番組をベタ誉めする内容の、つまらない記事になってしまいました(笑)。たぶん私とはまったく評価の違う人もいると思いますし、誰が観ても満足できる内容なのかどうかという判断は私にはできませんが、もし私と同じように「福山雅治の坂本龍馬」という疑問符でスルーされた方がおられたなら、ぜひ一度ご覧になられて、内容を確かめられるのがよいかと思います。
「ガリレオ」で福山雅治と組んで成功した福田靖の脚本を含め、大勢の役者とスタッフがいいものを作ろうと全力で取り組んでいる姿勢が、綺麗な画面(アジアの田舎を旅するとよく見かける街中のシーンでの土埃や、弥太郎の顔、服、髪、歯などのウェザリング塗装も含めて)からひしひしと伝わってくる良く出来た番組だと、私は感じました。
2010年2月4日 [その他(テレビ番組紹介)]
いつも同じ枕言葉になって恐縮ですが、今週も引き続き学研M文庫『ポーランド1939』の執筆に没頭する日々を送っています。当初の予定より、だいぶ長引いてしまっていますが、各国の利害と思惑が錯綜する複雑な外交史のパートを、なるべくわかりやすく、それでいて情報量の詰まった、読みやすい内容にまとめるために、時間を余計に費やしてしまいました。今は、軍事作戦のパートを執筆中で、学研さんのご厚意により締め切りを延ばしていただいたおかげで、完全に自分で納得のいく形に仕上げられると思います。発売は、4月か5月頃になるかと思いますが、興味のある方はぜひご期待ください。
(画像はNHKホームページより)
さて、今までにも何度かこのブログでご紹介しているNHKの番組『プロフェッショナル』ですが、おとといの放送では、東京の地下鉄ダイヤを組む職人気質の会社員の方がとりあげられていました。ふだんは何気なく利用している鉄道ですが、混雑や遅延が少しでもゼロに近づくよう、現場の状況を絶えず観察して、5秒単位で時間調整を常に研究しているというのは、なかなか面白いストーリーでした。そして、ダイヤ改正の大詰めに、どうしてもダイヤを修正したい列車が見つかり、そのことを上司に報告すると「他にも変えるべきところがないか調べろ」と命じられ、修正箇所が次々と増えて、今回の改正に適用すべきか否か、というのが、番組のクライマックスでした。
残された時間が限られている中で、多数の列車についてダイヤをいじると、全体のバランスに予期せぬ影響が出る危険があり、また相互乗り入れしている他社にも迷惑がかかる恐れがある。いわゆる「テレビ番組」の構成上は、ここで主人公が「それでもやる、チャレンジする」と言えば盛り上がるのでしょうが、役職者でない今回の主役は、熟考の末に「今回は適用を見送り、次回の改正でより効果的な形に修正できるよう、調査と研究を続ける」という結論を出し、それを上司に報告するところでエンディングとなりました。
改めて述べるまでもなく、テレビ番組の制作に際しては、制作サイドがあらかじめ「自分たちに都合のいいストーリー」を作って、それを持って撮影現場に行き、ドキュメンタリーと謳いながらも、取材対象にその「ストーリー」に合った発言や行動をさせたり、取材対象には伝えずに編集段階でそうした「ストーリー」に合うよう話の流れを誘導する場合が少なくないようです。これは、民放に限らず、NHKでも事情は同じなようで、時おりネット記事で取材対象者がNHKに怒っているという話を目にすることがあります。
ただ、私が今まで一視聴者として観てきた経験から判断すると、この『プロフェッショナル』という番組については、そうした「ストーリーありき」の番組づくりをしていないような印象を受けます(あくまで主観ですが)。と言うのは、過去の番組において、ここは主人公にこういう言葉を言わせる、あるいは行動をとらせるだろう、と、無意識に予想した「テレビ番組の定石」のような展開から、ストンと外れるような意外なエンディングになる回が、けっこうあったと記憶しているからです。
災害救助用のロボット開発者の回では、クライマックスの大事な運用試験で、かんじんのロボットが故障して動かなくなってしまう。花火師の回では、クライマックスの大事な花火大会で、自分の作った「玉」ではなく、期待を寄せている弟子の作った「玉」を打ち上げて、大会を成功させる。こういった形のエンディングで、一本の番組を終わらせるというのは、非常に勇気が要ることだと思います。けれども、皆さんもよくご存知のとおり、歴史上の戦いを振り返ってみても、彼我の状況を見極めた上で下される「最善の決断」というのは、「勇敢に攻める」ことだけでなく、「守る」あるいは「退く」というものであった場合も少なくありませんでした。以前の記事でご紹介した、北京五輪での女子ソフトボールの上野投手の話を、少し思い出しました。
番組は、クライマックスの音楽が流れたところで終わりになりますが、取材された「プロフェッショナル」の方が手掛けておられる仕事は、当然そこで終わるわけではなく、今後もずっと続いていきます。そう考えれば、たまたまテレビで取材された時期の「大事な場面」で、「攻める」ことが正解であるとは限らず、状況を的確に見極めて「退却する」あるいは「譲る」といった決断を下すことが、長い目で見れば正解である場合も多々あるはずです。そういった意味では、無理に「主役が活躍して終わる」という、一般受けしやすいストーリーに取材対象を当てはめようとしていない(ように見える)この番組の姿勢は、一視聴者として好感が持てる点のひとつです。
いざという大事なところで、主役が「主役として(一般に)期待されるカッコイイ役柄」を演じていない。これは、一見すると「テレビ番組」として失敗作のようにも見え、おそらく一部のテレビ番組制作者は、上司や視聴者にそう思われることを恐れて、主役が主役らしく(カッコよく)見えるような「ストーリー」を作って、それに取材対象を合わせるという安易な方法に頼ってしまうのではないかと思います。しかし、少なくとも「その道で卓越した実績を残している職業人」という意味での「プロフェッショナル」を素材として扱うのであれば、そんな薄っぺらい「演出」に頼らなくても、実際にあったこと、起こっていることだけを、そのままの状態で取材した方が、説得力のある、従って視聴者にとっても見応えがあるような番組に仕上がるような気がします(あくまで局外者の想像ですが)。
番組では、レストランのオーナーシェフも何度か取り上げられていますが、彼らは全員、おいしい味を「作る」のではなく「素材の良さを活かす・本来のおいしさを引き出す」という姿勢で、料理を作っておられたと記憶しています。テレビ番組においても、制作サイドが取材対象に「敬意」を抱いて接しているかどうかというのは、観ていれば視聴者の側にも伝わってくるものですし、私が民放の番組にほとんど興味を持てないのは、題材や出演者に対する制作者の「敬意」が感じられないものが多いからです(もちろん例外もあります)。もうすぐ冬季五輪が開幕しますが、競技や競技者に対する「敬意」が制作サイドに存在するか否かという点で、やはり私は、人気芸能人の緩いコメントなどを混ぜて「味付け」してしまう民放よりも、素材重視のNHKの方で観ることになるだろうと思います。
残念ながら、番組のメイン司会者が「税金の無申告」という、明らかに「プロフェッショナル失格」の行為を行っていたこととも関連してか、この番組は今年の3月にいったんお休みとなるようですが、10月以降には再開予定とのことで、今後も私の知らない、あらゆる業種の「尊敬すべきプロフェッショナル」の方々を、紹介してもらいたいと思います。
(画像はNHKホームページより)
さて、今までにも何度かこのブログでご紹介しているNHKの番組『プロフェッショナル』ですが、おとといの放送では、東京の地下鉄ダイヤを組む職人気質の会社員の方がとりあげられていました。ふだんは何気なく利用している鉄道ですが、混雑や遅延が少しでもゼロに近づくよう、現場の状況を絶えず観察して、5秒単位で時間調整を常に研究しているというのは、なかなか面白いストーリーでした。そして、ダイヤ改正の大詰めに、どうしてもダイヤを修正したい列車が見つかり、そのことを上司に報告すると「他にも変えるべきところがないか調べろ」と命じられ、修正箇所が次々と増えて、今回の改正に適用すべきか否か、というのが、番組のクライマックスでした。
残された時間が限られている中で、多数の列車についてダイヤをいじると、全体のバランスに予期せぬ影響が出る危険があり、また相互乗り入れしている他社にも迷惑がかかる恐れがある。いわゆる「テレビ番組」の構成上は、ここで主人公が「それでもやる、チャレンジする」と言えば盛り上がるのでしょうが、役職者でない今回の主役は、熟考の末に「今回は適用を見送り、次回の改正でより効果的な形に修正できるよう、調査と研究を続ける」という結論を出し、それを上司に報告するところでエンディングとなりました。
改めて述べるまでもなく、テレビ番組の制作に際しては、制作サイドがあらかじめ「自分たちに都合のいいストーリー」を作って、それを持って撮影現場に行き、ドキュメンタリーと謳いながらも、取材対象にその「ストーリー」に合った発言や行動をさせたり、取材対象には伝えずに編集段階でそうした「ストーリー」に合うよう話の流れを誘導する場合が少なくないようです。これは、民放に限らず、NHKでも事情は同じなようで、時おりネット記事で取材対象者がNHKに怒っているという話を目にすることがあります。
ただ、私が今まで一視聴者として観てきた経験から判断すると、この『プロフェッショナル』という番組については、そうした「ストーリーありき」の番組づくりをしていないような印象を受けます(あくまで主観ですが)。と言うのは、過去の番組において、ここは主人公にこういう言葉を言わせる、あるいは行動をとらせるだろう、と、無意識に予想した「テレビ番組の定石」のような展開から、ストンと外れるような意外なエンディングになる回が、けっこうあったと記憶しているからです。
災害救助用のロボット開発者の回では、クライマックスの大事な運用試験で、かんじんのロボットが故障して動かなくなってしまう。花火師の回では、クライマックスの大事な花火大会で、自分の作った「玉」ではなく、期待を寄せている弟子の作った「玉」を打ち上げて、大会を成功させる。こういった形のエンディングで、一本の番組を終わらせるというのは、非常に勇気が要ることだと思います。けれども、皆さんもよくご存知のとおり、歴史上の戦いを振り返ってみても、彼我の状況を見極めた上で下される「最善の決断」というのは、「勇敢に攻める」ことだけでなく、「守る」あるいは「退く」というものであった場合も少なくありませんでした。以前の記事でご紹介した、北京五輪での女子ソフトボールの上野投手の話を、少し思い出しました。
番組は、クライマックスの音楽が流れたところで終わりになりますが、取材された「プロフェッショナル」の方が手掛けておられる仕事は、当然そこで終わるわけではなく、今後もずっと続いていきます。そう考えれば、たまたまテレビで取材された時期の「大事な場面」で、「攻める」ことが正解であるとは限らず、状況を的確に見極めて「退却する」あるいは「譲る」といった決断を下すことが、長い目で見れば正解である場合も多々あるはずです。そういった意味では、無理に「主役が活躍して終わる」という、一般受けしやすいストーリーに取材対象を当てはめようとしていない(ように見える)この番組の姿勢は、一視聴者として好感が持てる点のひとつです。
いざという大事なところで、主役が「主役として(一般に)期待されるカッコイイ役柄」を演じていない。これは、一見すると「テレビ番組」として失敗作のようにも見え、おそらく一部のテレビ番組制作者は、上司や視聴者にそう思われることを恐れて、主役が主役らしく(カッコよく)見えるような「ストーリー」を作って、それに取材対象を合わせるという安易な方法に頼ってしまうのではないかと思います。しかし、少なくとも「その道で卓越した実績を残している職業人」という意味での「プロフェッショナル」を素材として扱うのであれば、そんな薄っぺらい「演出」に頼らなくても、実際にあったこと、起こっていることだけを、そのままの状態で取材した方が、説得力のある、従って視聴者にとっても見応えがあるような番組に仕上がるような気がします(あくまで局外者の想像ですが)。
番組では、レストランのオーナーシェフも何度か取り上げられていますが、彼らは全員、おいしい味を「作る」のではなく「素材の良さを活かす・本来のおいしさを引き出す」という姿勢で、料理を作っておられたと記憶しています。テレビ番組においても、制作サイドが取材対象に「敬意」を抱いて接しているかどうかというのは、観ていれば視聴者の側にも伝わってくるものですし、私が民放の番組にほとんど興味を持てないのは、題材や出演者に対する制作者の「敬意」が感じられないものが多いからです(もちろん例外もあります)。もうすぐ冬季五輪が開幕しますが、競技や競技者に対する「敬意」が制作サイドに存在するか否かという点で、やはり私は、人気芸能人の緩いコメントなどを混ぜて「味付け」してしまう民放よりも、素材重視のNHKの方で観ることになるだろうと思います。
残念ながら、番組のメイン司会者が「税金の無申告」という、明らかに「プロフェッショナル失格」の行為を行っていたこととも関連してか、この番組は今年の3月にいったんお休みとなるようですが、10月以降には再開予定とのことで、今後も私の知らない、あらゆる業種の「尊敬すべきプロフェッショナル」の方々を、紹介してもらいたいと思います。
2009年9月25日 [その他(テレビ番組紹介)]
日曜日に録画していた、TBSのドラマ「官僚たちの夏」最終回を、昨日の夜に観ました。
(画像はTBS公式サイトより)
主人公たちが必死に守ろうとしてきた「日本の産業界」が、政治的取引の犠牲となった怒りを「官僚」たちに向けて爆発させ、「善良な官僚」の代表(笑)である佐藤浩市と堺雅人が袋叩きにされて血を流しながら呆然と地面に横たわるというラストシーンは、いろいろな解釈が可能なためか、ネット上では「なんかスッキリしない終わり方だった」という声が多いようです。「悪いのは政治家で官僚じゃないんだよ」という昨今の官僚バッシングへの批判なのか、それとも「いいかげん心を入れ替えないといずれ貴様らもこうなるぞ」という腐敗・無気力官僚への警告だったのか。
番組をご覧になっていた方はおわかりかと思いますが、このドラマは一応「城山三郎原作」となっているものの、小説の忠実なドラマ化ではなく、昭和30~40年代の日本を舞台としながらも、当時の政治的・経済的状況を現代の日本に重ね合わせた、現代の価値判断基準に基づく「群像劇」となっています。そして、主演の佐藤浩市が要所要所で口にする言葉というのは、製作者が現代に生きる日本人(一般市民と現役官僚の双方)に向けて発したメッセージだと理解して間違いないと思います。
このドラマは、佐藤浩市と堺雅人に加えて、船越英一郎、高橋克実、高橋克典、杉本哲太、長塚京三、佐野史郎、西村雅彦、吹石一恵、そして北大路欣也といった名優の演技を堪能できるので、第一回から欠かさず観てきました(でも最終回を迎えたので民放は観る番組がなくなってしまった)が、これほど「アメリカ政府」をあからさまに「政治的・経済的に日本政府をいじめ続ける悪者」に仕立てたドラマというのは、夜9時代の大衆向け番組としては、ちょっと記憶にありません。そして、現代の日本における政治的・経済的状況を考えれば、今このタイミングで、こういう傾向のドラマが(経営不振のテレビ業界にしては不自然なほどに潤沢な制作費をかけて)作られた(そして通常の1クールドラマより長い期間にわたって放映された)というのは、果たして偶然なのだろうか、という疑念がほんの少し湧いてきます。
少し前に瀬戸さんと電話で話した時、このドラマとかNHKの「白洲次郎」とか、どうも「国策ドラマ」みたいな匂いがする番組が増えてきたという話題になりましたが、もしかしたら日米双方の上の方で、そろそろ「東西冷戦時代の遺物」を整理しようという合意が成立して、国民の意識改革を少しずつ始めたのかなぁ、という、穿った見方もできないことはないような気がします。そして、それを実行するには、国政の場でも「東西冷戦時代の遺物」をまず根元から排除する必要があったのかなぁ、などと想像してみたり。「核の密約」暴露も、なぜか(以前の価値判断基準だと不利益を被るはずの)アメリカ側が積極的に動いていたりしますし。ちなみに「官僚たちの夏」のメインスポンサーは、トヨタ自動車とNTTドコモという、日本を代表する二大企業でした。
歴史群像次号に掲載される「ベルリンの壁崩壊」でも詳しく書きましたが、東欧諸国は1989年に「東西冷戦時代の遺物」を整理する大事業をスタートしており、「東側」の軍事同盟であったワルシャワ条約機構は、1991年7月1日付で正式に解消されて、東欧駐留ソ連(ロシア)軍も完全に旧ソ連(CIS)領内へと撤収しました。あれから20年が経過した今、アジアでは未だに基本的には「東西冷戦時代」から続く安全保障体制を保持しており、在日米軍も冷戦時代のまま駐留し続けています。我々も、そろそろ従来の「日米同盟」に代わる新しい国際的枠組みを想像し、相応の責任を担うべく「意識変革」が必要な頃合いなのでしょうか。
いずれにせよ、登場する役者の演技が素晴らしかったので、それだけで私は満足できるドラマでした。桂ざこばも、なかなかの名演でしたね。
(画像はTBS公式サイトより)
主人公たちが必死に守ろうとしてきた「日本の産業界」が、政治的取引の犠牲となった怒りを「官僚」たちに向けて爆発させ、「善良な官僚」の代表(笑)である佐藤浩市と堺雅人が袋叩きにされて血を流しながら呆然と地面に横たわるというラストシーンは、いろいろな解釈が可能なためか、ネット上では「なんかスッキリしない終わり方だった」という声が多いようです。「悪いのは政治家で官僚じゃないんだよ」という昨今の官僚バッシングへの批判なのか、それとも「いいかげん心を入れ替えないといずれ貴様らもこうなるぞ」という腐敗・無気力官僚への警告だったのか。
番組をご覧になっていた方はおわかりかと思いますが、このドラマは一応「城山三郎原作」となっているものの、小説の忠実なドラマ化ではなく、昭和30~40年代の日本を舞台としながらも、当時の政治的・経済的状況を現代の日本に重ね合わせた、現代の価値判断基準に基づく「群像劇」となっています。そして、主演の佐藤浩市が要所要所で口にする言葉というのは、製作者が現代に生きる日本人(一般市民と現役官僚の双方)に向けて発したメッセージだと理解して間違いないと思います。
このドラマは、佐藤浩市と堺雅人に加えて、船越英一郎、高橋克実、高橋克典、杉本哲太、長塚京三、佐野史郎、西村雅彦、吹石一恵、そして北大路欣也といった名優の演技を堪能できるので、第一回から欠かさず観てきました(でも最終回を迎えたので民放は観る番組がなくなってしまった)が、これほど「アメリカ政府」をあからさまに「政治的・経済的に日本政府をいじめ続ける悪者」に仕立てたドラマというのは、夜9時代の大衆向け番組としては、ちょっと記憶にありません。そして、現代の日本における政治的・経済的状況を考えれば、今このタイミングで、こういう傾向のドラマが(経営不振のテレビ業界にしては不自然なほどに潤沢な制作費をかけて)作られた(そして通常の1クールドラマより長い期間にわたって放映された)というのは、果たして偶然なのだろうか、という疑念がほんの少し湧いてきます。
少し前に瀬戸さんと電話で話した時、このドラマとかNHKの「白洲次郎」とか、どうも「国策ドラマ」みたいな匂いがする番組が増えてきたという話題になりましたが、もしかしたら日米双方の上の方で、そろそろ「東西冷戦時代の遺物」を整理しようという合意が成立して、国民の意識改革を少しずつ始めたのかなぁ、という、穿った見方もできないことはないような気がします。そして、それを実行するには、国政の場でも「東西冷戦時代の遺物」をまず根元から排除する必要があったのかなぁ、などと想像してみたり。「核の密約」暴露も、なぜか(以前の価値判断基準だと不利益を被るはずの)アメリカ側が積極的に動いていたりしますし。ちなみに「官僚たちの夏」のメインスポンサーは、トヨタ自動車とNTTドコモという、日本を代表する二大企業でした。
歴史群像次号に掲載される「ベルリンの壁崩壊」でも詳しく書きましたが、東欧諸国は1989年に「東西冷戦時代の遺物」を整理する大事業をスタートしており、「東側」の軍事同盟であったワルシャワ条約機構は、1991年7月1日付で正式に解消されて、東欧駐留ソ連(ロシア)軍も完全に旧ソ連(CIS)領内へと撤収しました。あれから20年が経過した今、アジアでは未だに基本的には「東西冷戦時代」から続く安全保障体制を保持しており、在日米軍も冷戦時代のまま駐留し続けています。我々も、そろそろ従来の「日米同盟」に代わる新しい国際的枠組みを想像し、相応の責任を担うべく「意識変革」が必要な頃合いなのでしょうか。
いずれにせよ、登場する役者の演技が素晴らしかったので、それだけで私は満足できるドラマでした。桂ざこばも、なかなかの名演でしたね。
2009年9月13日 [その他(テレビ番組紹介)]
先週は、ロンメルさんの文庫に収録する地図を少しずつ作りながら、比較的ゆったりしたペースで過ごしました。週7日、12時間超の労働が続いた上、原稿執筆の終盤では危うく風邪をひきそうになって、薬の連投でなんとかゴールまで持ちこたえた感じだったので、とりあえずは栄養のあるものをたくさん食べてよく眠り、体力と気力の回復を優先する生活を送りました。
「出征」の地図は、ロンメル著『歩兵の攻撃』の記述内容や当時の地図・鉄道路線図などから独自に作ったものです。
幸い、体調も仕事の意欲も完全に復活したので、今週は歴史群像誌の原稿「ベルリンの壁崩壊」の執筆に全力で取り組みます。この原稿は、最新号に掲載されている「東欧枢軸国の興亡」の続編という位置づけですが、ベルリンの壁崩壊から20年ということで、冷戦の始まりから終わりまでの東欧の歴史を振り返ります。
ところで、今日の昼過ぎにNHKの「アジアンスマイル」という番組で「“チベット子ども村”の祈り」というのをやっていました。インド北西部のダラムサラという村にある、亡命チベット人の学校が舞台で、中国政府の同化政策によってチベット文化が失われることを危惧したチベットの親たちが、危険を承知で子供をこの学校に送り出し(言うまでもなく現在の中国統治下のチベットでは違法行為ですが)、子供たちは心細い思いをしながらも、将来への明るい希望を抱いて、チベットの独自文化やチベット仏教の価値判断基準を学んでいるという「事実」を淡々と伝える番組でした。
(画像はNHKのホームページより)
NHKは、どちらかと言えば中国政府に対するある種の「配慮」を怠らない姿勢の放送局だと一般に見なされているようですが、こういう良質な番組(もちろん私の主観ですが)をサラッと流してしまうあたり、なかなか侮れないようです。20分ほどの短い番組ですが、BSでの再放送も予定されているそうなので、興味のある方はぜひご覧ください。
http://www.nhk.or.jp/asiansmile/onair/20090912.html
再放送予定
9月16日(水) 午前9:35~9:55(メジャーリーグ休止の場合放送)
9月20日(日) 午後11:40~翌0:00
「出征」の地図は、ロンメル著『歩兵の攻撃』の記述内容や当時の地図・鉄道路線図などから独自に作ったものです。
幸い、体調も仕事の意欲も完全に復活したので、今週は歴史群像誌の原稿「ベルリンの壁崩壊」の執筆に全力で取り組みます。この原稿は、最新号に掲載されている「東欧枢軸国の興亡」の続編という位置づけですが、ベルリンの壁崩壊から20年ということで、冷戦の始まりから終わりまでの東欧の歴史を振り返ります。
ところで、今日の昼過ぎにNHKの「アジアンスマイル」という番組で「“チベット子ども村”の祈り」というのをやっていました。インド北西部のダラムサラという村にある、亡命チベット人の学校が舞台で、中国政府の同化政策によってチベット文化が失われることを危惧したチベットの親たちが、危険を承知で子供をこの学校に送り出し(言うまでもなく現在の中国統治下のチベットでは違法行為ですが)、子供たちは心細い思いをしながらも、将来への明るい希望を抱いて、チベットの独自文化やチベット仏教の価値判断基準を学んでいるという「事実」を淡々と伝える番組でした。
(画像はNHKのホームページより)
NHKは、どちらかと言えば中国政府に対するある種の「配慮」を怠らない姿勢の放送局だと一般に見なされているようですが、こういう良質な番組(もちろん私の主観ですが)をサラッと流してしまうあたり、なかなか侮れないようです。20分ほどの短い番組ですが、BSでの再放送も予定されているそうなので、興味のある方はぜひご覧ください。
http://www.nhk.or.jp/asiansmile/onair/20090912.html
再放送予定
9月16日(水) 午前9:35~9:55(メジャーリーグ休止の場合放送)
9月20日(日) 午後11:40~翌0:00