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2009年5月11日 [その他(雑感・私生活など)]

今日は(唐突ですが)政治の話題です。野党第一党の党首が今日になって「辞任表明」したことがニュース番組で盛んに報じられていますが、民放はもちろんNHKのニュース番組も、この問題を閉ざされた業界内で繰り広げられる「政局」の価値判断基準でしか報道しておらず、後継者は誰か、次の総選挙への影響は、といった場当たり的な憶測に終始するばかりで、公設第一秘書の逮捕に始まる一連の騒動が持つ意味や背景を深く分析したり、野党第一党の前党首が口にしていた言葉と彼が実際に行っていた行動が果たして一致していたのかどうかを検証しようというような、私が知りたいと思っている問題に光を当てる番組が一つも見当たらないのが非常に残念でした。

改めて述べるまでもないことですが、野党第一党の前党首はこれまで、人間の言葉を覚えたオウムのように、テレビカメラを向けられると繰り返し「政権交代、政権獲得」という単語を口にしていました。しかし、彼および彼が党首を務めてきた野党第一党が、これまで国会の内外でとってきた「実際の行動」は、その表向きの「目標」と完全に整合していたのかどうか。私は、その整合性にはかなり懐疑的です。ゲーム的に言えば、野党第一党プレイヤーは「政権交代、政権獲得」という目標(勝利条件)を達成する上で最も合理的と思われる選択をしばしば選んでおらず、相手に打撃を与えられる絶好のチャンスでもなぜか最も効果的と思われる行動を起こさないため、他に何か別の価値判断基準があり、表向きに吹聴しているのとは別の目標を優先してゲームをプレイしているのではないか、という疑問を、一度ならず感じてきました。

現代の日本社会では、国政選挙への投票は国民の義務であり、投票棄権という選択肢を認めてはならないというのが、表向きの共通認識となっているようです。実際、私も投票行為そのものは棄権したことがなく、とりあえず国政選挙の投票は欠かしたことがありません(若造の頃、いきがって白紙で入れたことはあります)。しかし、投票という行為を、政治的な委任契約書へのサインと考えるなら、ほんとうは積極的に信用しているわけでもない候補者の名前を、消去法で投票用紙に書き込むような行為が本当に正しいのかどうか、疑問に思うことも多々あります。

例えば、目の前にそれぞれ微妙に内容の違う契約書が5通あり、どれか1通に必ず署名捺印せよと迫られたとします。個々の契約書に目を通すと、大きな字で小見出しのように書いてある文面はどれも似たり寄ったりで、具体性のない漠然とした美辞麗句(活力ある日本に! など)が多く、残りの部分は保険の約款のように鬼のように小さい文字でびっしり書かれていて、5通のすべてについて隅々まで読むのはかなりの労力を必要とします。しかも、文面のところどころに「さらに詳しい情報はhttp://www…を参照」などとURLが書かれていて、契約書そのものには全ての情報が入っていなかったりします。続きの情報を知りたければ、ネットに接続して自分で調べよというわけです。

こういう状況下では、よほど暇と根気のある人でなければ、自分で全ての情報を確認・吟味しようとは思わず、契約書の右上に記されている会社の名前を見て、その中にテレビのCFで馴染みのある大手の社名があれば、とりあえず安心してその会社の契約書に署名する可能性が高いと思います。しかし、選挙の投票と保険の契約書の違いは、後者は署名を保留あるいは拒絶できるのに対し、前者は必ずどれか1通に署名捺印することを「強制」されることにあります。そして、5通用意されているという事実は、あたかも「選択の自由」が存在するかのように見えてはいるものの、実際にはこの5通以外の選択肢を奪われているという点で、本当の意味での自由ではないとも言えます。100種類ある中で、第91番目から第95番目の5種類の中から1つを選べ、という選択は、一見すると相手に自由に選ばせているように見えて、実は選択肢を用意した側の望む種類へと誘導しているだけにすぎません。

日本ではある時期から、突然大手メディアが「これからは二大政党制の時代だ」などと、あたかも与党と野党第一党だけが政権を担う能力があり、その他の泡沫野党はただ批判を述べるために形式的に存在を許されているだけであるかのような傾向の報道をし始め、国民もなんとなくそうした認識を受け入れてきました。けれども、友人との電話や仕事相手の編集者との雑談の中で、これってもしかしたら実質的な一党独裁体制と同じなのでは? という話題になったことも一度ならずあります。「与党」対「野党第一党」という真剣勝負の対立図式が政界に存在するかのように、我々は漠然と思い込んできましたが、実際にはこれらの両勢力が互いに役割分担をしながら、利害がおおむね一致した権力集団を構成し、それ以外の勢力を排除するために協同しているのではないか、という疑念も存在するわけです。

私が小学生の頃は、今と違ってプロレスの人気が高く、国民的娯楽の一翼を担っていました。毎週(確か金曜日に)放映されるテレビのプロレス中継は高い視聴率を獲得しており、私も子供ながらに熱中した記憶があります。まだ世の中の仕組みをよく知らない純真な小学生だった私は、ジャイアント馬場やジャンボ鶴田などの「善玉勢力」と、タイガー・ジェット・シンやアブドーラ・ザ・ブッチャー(今考えるといろいろな意味で凄いネーミングです)などの「悪玉勢力」は、価値判断基準が真っ向から対立していて、リングの外でも全く相容れない存在なのだと思い込んでいました。しかし、実際にはプロレスとは真剣勝負のスポーツではなく、お客さんを喜ばせるための「興業」であり、「善玉勢力」対「悪玉勢力」の対立というのは、状況を面白く盛り上げて個々のキャラクターを際立たせるための「演出」であったことは言うまでもありません。実際、仲間の巨人レスラーが急死した時には、「善玉勢力」も「悪玉勢力」も仲良く参列して故人の冥福を祈っており、彼らは巨人レスラーの早すぎる死を悼み、馬場もブッチャーも酒を酌み交わしながら思い出話に花を咲かせていたという話です。

民放テレビの「政治討論番組」を見ると、まさにプロレス的な「興行的対立」が番組の目玉になっていて、視聴者は昔の人間がプロレス中継に熱中したように、それぞれ政治的立場の異なる「勢力」に属する出演者が、相容れることのない極論と極論をぶつけ合って罵り合うだけの「格闘技」を繰り広げるのを見て、ストレスを発散することができます。そして、プロレスの試合で「善玉勢力」がフォールされた時、必ずカウント2.5で善玉の仲間が助けに入るまでレフェリーが間合いを計るのと同様、現在の野党第一党もまた、与党が政治的なピンチに直面すると必ず、相手をフォールして「勝ってしまわない」よう、同じ陣営のレスラーによる同士討ちや、緩慢な動き、観客への無意味なアピールとそれに続く相手陣営の不意打ちによるダメージ、といった「演出」をきちんと守り、権力集団の構造を崩さないような配慮をしているようにも見えます。

昨年、大手新聞社の社主が仲介役となって、与党と野党第一党の連立政権樹立という構想が表面化したことがありました。その後、この構想は立ち消えとなったものの、連立政権樹立に好意的だった野党第一党の前党首は、なぜかそのまま党首の地位に留まり続け、大手メディアもこの不思議な現象(与党への批判票として野党第一党に票を投じた有権者に対する露骨な裏切り行為)を批判するでもなく、淡々と「政局」の情報だけを伝えていました。与党と野党第一党の連立政権が樹立されれば、政局運営はより効率化できますが、与党と野党第一党の対立という、わかりやすい二極対立の図式は失われます。そうなると、ほんとうに与党にとって脅威となる野党が出現してくる可能性が高くなり、政局の安定という観点から見れば、望ましくない展開だと言えます。

上に述べたような穿った認識は、もちろん私の主観的な(そして恐らくは愚かな)「疑念」に過ぎません。ただ、野党第一党が、次期党首に誰を選ぶのか、その人選を見れば、彼らがどの程度本気で、先に述べた「勝利条件」の達成に取り組んでいるのかを、判断できるのではないかと思います。
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