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2015年4月29日 [その他(戦史研究関係)]

今日は告知を二つ。まず、ベストセラーズさんの新刊『歴史人別冊 世界史人』第6号「第二次世界大戦の戦闘機と戦車 最強図鑑」が発売されました。私の担当記事「クルスク大戦車戦」(10ページ)も掲載されています。1943年7月のクルスク会戦の要点を、コンパクトに解説しています。

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書名の通り、第二次大戦期の戦車と戦闘に関する、ハードウエアと戦術/運用法に関する内容の濃い記事が満載の内容です。ちなみに、去年フランスのヴィムーティエで撮ったティーガーI型の実車カラー写真も提供しましたが、手違いでクレジットが別の人になっています(元の記事に入っていた写真が荒かったので、最終段階で差し替えを提案しました)。


次に、神奈川新聞さんの今日の朝刊に、私のインタビュー記事が掲載されました。ネット版も、同時に公開されています。
「時代の正体<84> 戦史が語る破局への道」

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先週水曜日に、同紙の記者の方が日帰り出張でうちに来られ、いろいろ意見を述べさせていただきました。話の内容は、戦史・紛争史に見る前例と現在の日本で進行しつつある社会変化の類似点や、古今東西の戦史・紛争史で繰り返された解決困難な問題などです。

ツイッターで私をフォローされている方は既にご存じかと思いますが、私はこの数年に日本で進行しつつある「社会の変化」に、強い不安を抱いています。日本の戦前戦中や、19世紀末以降に世界のあちこちで見られた戦争や紛争、内戦、独裁体制と共通するパターンが、いくつも現れているように思えるからです。

それらの「共通性」は、単に「偶然」そうなっているものもあれば、過敏に反応しすぎというものもあるかとは思いますが、それにしても共通する事例の数が多く、しかも時間が経過するごとに増えていることが気になります。杞憂であればよいのですが、社会を見ると同様の不安や懸念を抱く人は決して少なくないようで、寄稿依頼や対談企画、インタビューなどの話をいただく担当者の方(地理的理由からやむなくお断りした仕事も含む)も、このまま社会の変化を放置するのはまずいのではないか、という問題意識を強く持っておられる方ばかりでした。

新たな出版企画の打ち合わせや、先日の小島慶子さんとの対談も含め、初めてお会いする方から「どのようにして、戦争や紛争について、現在のような考えを持つようになったのか」と質問されることが多いのですが、どうも戦史研究や紛争史研究と聞くと、軍事研究と同じものという認識を持たれている方が、今の日本社会では一般的であるように思います。けれども、私が強い関心を持つ対象は、あくまで「戦争」や「紛争」それ自体であり、「軍事」ではありません。

もちろん「軍事」にも普通の人よりは関心を持って、常に新しい情報を調べたりしていますが、私の考えでは「軍事」とは、戦争や紛争という複雑な形状の立体物を構成する「いくつもある側面の一つ」に過ぎず(他の側面とは「民族」や「領土」、「経済」、宗教を含む「文化」など)、戦争や紛争の研究に占める「軍事」の割合は、テーマによって変動します。先に挙げた質問の背景には、私が戦争や紛争を「軍事の論理」や「軍事的合理性」だけで説明せず、政治や文化なども含めた形で捉えようとしているので、一般的な「戦史/紛争史研究=軍事研究」というイメージとは違って見えているのかもしれない、という気がします。

神奈川新聞さんの取材インタビューでは、私が長年プレイやデザイン、出版に関わっている「シミュレーション・ゲーム」の話題も出ました。記者の方が強い関心を持っておられたので、自分の作ったいくつかのゲームと、GMT社の『ラビリンス』『ア・ディスタント・プレイン』をお見せして、これらのゲームプレイの概要や、プレイすることで得られる様々な種類の「情報」について説明しました。そして、私が戦史や紛争史の分析、および社会問題の分析で使う思考法も、こうしたゲームと無関係ではないという話をしました。

私の見るところ、最近の日本の「シミュレーション・ゲーム業界」では、個々のゲームを「競技的側面」と「軍事研究的側面」で評価する論調が主流で、それ以外の視点、例えばかつての『タクテクス』誌で議論されたような「歴史研究の補助的ツールとしての側面」に光を当てる論考は、ほとんど見かけることがなくなりました。私が戦争や紛争の「多面性」を知る上で、重要なツールとなったのが、紙製のシミュレーション・ゲームでしたが、日本ではそうした話が「通じる」相手も少なくなった印象で、寂しい限りです。

しかし海外では、紙製のシミュレーション・ゲームを国際関係の認識や軍事・政治問題の理解に活用するという動きがあり、その主旨の研究書『Simulating War』の著者でもある英国キングズ・カレッジのフィリップ・セイビン教授の活動は特に知られています。そして、つい昨日(2015年4月28日)の話ですが、イギリスの新聞『ザ・ガーディアン』紙(エドワード・スノーデン氏の告発を最初に掲載した硬派の新聞)に「なぜ政治分野のボードゲームが、我々の世界認識を変える力を持つのか」という記事が掲載されました。

Why political board games have the power to change our view of the world(The Guardian)
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この記事の筆者であるマット・スロワー氏は、CIAの対テロ部局の分析官ヴォルコ・ルーンケ氏がデザインしたGMT社の『ラビリンス』をプレイした時、それまで持っていた「ボードゲームとはおもちゃの一種」という認識が変わったと書いています。このゲームをプレイした方ならご存じの通り、例えば「無差別テロ」という行為を「組織の宣伝と寄付金集め」の目的で行うという、ジハーディスト(イスラム過激派)側の「隠された動機」を、ゲームという形式で「部分的に追体験」することで、漠然とした形ではあっても、今まで持たなかった「視点」やそれに繋がる「ヒント」を得ることができます。

目的解決のための戦略的視点や、利害の異なる相手との駆け引きなどは、過去の抽象的なボードゲームにもよく織り込まれた娯楽的要素ですが、その複合的な構造モデルを、特定のテーマと注意深く合致させることで、戦史や紛争史についての関心が喚起されたり、気づかなかった側面が見えたり、ということは多々あります。そんな経験を、長年このホビーを続けることで数え切れないほど味わったことが、現在のさまざまな分析の仕事にも大いに役立っていると、私は確信しています。今となっては、紙製のシミュレーション・ゲームを再び「大衆化」することは困難だとは思いますが、機会あるごとにそうした話をすることで、シミュレーション・ゲームの「社会的地位」をわずかでも向上させることができれば、と考えているところです。

ちなみに、最近の政治分析や政治的な評論関係の仕事は例外なく、私がツイッターで書いたり、その書き込みをまとめたサイトを先方の依頼主さんが読まれたことがきっかけでした。「ツイッターでフォロワーが増えることに、どんな意味があるのか」という意見も時折目にしますが、先日フェイスブック記事のコメント欄でも少し書いたように、私にとっては「自分の考えに関心を持ってもらう貴重な機会」が増えることを意味するので、ありがたい変化です。いろんな物事を考える上での「多角的な視点・論点」や「俯瞰的な視点・論点」を提示することで、そんな見方があるのか、過去にそんな実例があったのか、という反応が返ってくると、特に嬉しく思います。

政治的な問題については、意見はさまざまですし、私の現状認識に同意されない方もおられるかとは思いますが、何が正解かという答えが出るのは今ではなく、5年後や10年後、あるいはそれ以降になります。そしてその時に、この道は自分や自分の家族、友人の生活環境と命に関わる「戦争」や「紛争」へと続く道だったと気づいても、ほとんどの場合は引き返すことはできず、後ろから来る大勢の人間の波に押されて、そのまま一本道を前に進んでいくしかなくなります。

未来を見通すことは誰にもできませんが、一人旅で海外の見知らぬ通りを歩くときと同様、あらゆる感覚を研ぎ澄ませて、この道を本当に歩き続けるべきなのかを、誰もが常に問い続ける必要がある時代に、我々は生きているように思います。


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