2017年7月16日 [その他(戦史研究関係)]
前回の更新から、だいぶ間が空いてしまいましたが、先日のアリゾナ・ハワイ旅行レポートの後編です。
ハワイのホノルル国際空港は、今年4月27日に「ダニエル・K・イノウエ国際空港」へと改称されました。イノウエ氏は、ハワイ生まれの日系二世で、戦中は第442連隊戦闘団の一員としてヨーロッパでドイツ軍と戦った経歴(右腕を失う)を持ち、戦後は政界に入り上院議員や上院仮議長として活躍した人物です。
イノウエ空港のロビーには、彼の足跡に関する展示に加え、第二次大戦期の日系人部隊である第442連隊戦闘団と第100歩兵大隊、陸軍情報部所属の日系米軍人の活動に関する展示があります。1943年、ヨーロッパ戦線に送られた米軍日系人部隊は、終戦まで激戦を重ねて多くの叙勲を受けましたが、必要以上に「忠誠心」を示す必要があったため、死傷率も非常に高かった。
ハワイ・真珠湾のシンボル的施設である、アリゾナ記念館。日本軍の攻撃で大爆発を起こして沈没した戦艦アリゾナの船体上に作られた慰霊施設で、時間指定の整理券をもらってオアフ島から無料ガイドツアーで行きます。周辺には、他の沈没船の位置を示すコンクリート製の構造物もあります。真珠湾周辺の地形は平坦なので、日本軍の爆撃機や雷撃機のパイロットは、上空から目標を確認しやすかったでしょう。
アリゾナ記念館に向かう前、ツアー参加者は日本がなぜ対米開戦を決定したかという短い映画を鑑賞しますが、真珠湾攻撃を実行した東條内閣の一員として、岸信介商工大臣の顔の下半分も一瞬画面に映ったように見えました。先日ここを訪れた安倍首相も、この映画を観たと、首相らに同行取材していた外国人記者から聞きましたが、画面を指さして「あれが私の尊敬する祖父です」と言ったでしょうか。
真珠湾の戦史関係の見どころを回る拠点のビジターセンターには、小さい博物館があり、アリゾナ記念館の模型や、真珠湾攻撃の日本軍機が出撃した空母赤城の模型なども展示されています。戦艦ミズーリや潜水艦ボーフィン、太平洋航空博物館などのチケットはここで買えますが、ネットで事前購入するのが確実です。
真珠湾でアリゾナ記念館へ行く時間待ちをしていたら、遠くから軍艦が近づいてきました。よく見ると、なんと艦尾に旭日旗が翻っていて驚きました。真珠湾に旭日旗の軍艦?
「あれは海上自衛隊の訓練航海だね。戦没者に敬意を表して減速し、タグボートを伴っている」と米海軍の人が教えてくれました。艦名は「かしま」と「はるさめ」。真珠湾の港内で、アリゾナ記念館と、旭日旗を掲げた自衛隊の艦艇というツーショットは、いろいろな意味で興味深い光景ではありました。
真珠湾に展示されている米海軍の潜水艦ボーフィン。太平洋戦争中盤の1943年5月1日に就役し、日本の輸送船に対する通商破壊戦に従事。1944年8月22日には沖縄から疎開する学童を乗せた疎開船「対馬丸」を撃沈した潜水艦で、今は内部を一般公開しています。この潜水艦を前にして、私は沖縄で見学した、対馬丸記念館の展示内容を思い出していました。艦内は見学せず。
潜水艦ボーフィンのそばの陸地に展示されている、日本海軍の特攻兵器「回天」。英語の説明がストレートに言い表しているように「一人乗りの自殺魚雷」で、最初から敵艦への体当たりを目的とした兵器でした。私の父方の祖父は、戦後は個人でいくつか特許を持つエンジニアでしたが、戦中はこれに関わっていたとのこと。しかし私が小学生の頃に亡くなったので、どんな心境で回天に関わったのかは聞けませんでした。
ハワイ・真珠湾のフォード島に停泊している戦艦ミズーリ。現在は記念館として艦上と艦内の一部を公開していますが、艦橋など上層構造部の修繕工事が行われています(今年9月まで)。第二次大戦後期の1944年1月に進水し、米軍の硫黄島上陸や沖縄上陸に加え、朝鮮戦争や湾岸戦争でも支援砲撃を行いました。
戦艦ミズーリは、1945年9月2日に重光葵ら日本政府代表が、マッカーサーをはじめとする連合軍代表者と会って降伏文書に調印した場所でもあります(調印当時、東京湾に停泊)。降伏条約の調印時には、ペリー提督の掲げた古い星条旗が持ち出されましたが、今もそのレプリカがミズーリ艦上に展示されています。
ミズーリの艦上では、修復の一環として、木甲板の張り替え作業が行われていました。鋼板に木を並べるのは、防熱や防音に加え、歩く人への負担軽減(濡れても滑りにくく、衝撃も緩和される)という効果もあるそうです。
真珠湾のフォード島にある太平洋航空博物館。真珠湾攻撃当時に使われていた飛行場脇の格納庫を利用した軍用機の博物館で、ゼロ戦やB25(1942年4月18日に東京を爆撃したドゥーリットル隊の爆撃機)、ドーントレス、修復待ちのB17爆撃機などが展示されています。戦後のジェット機も少しあります。
午後にフォード島で戦艦ミズーリと太平洋航空博物館を見学し、帰りのシャトルバスを待っていたら、「かしま」と「はるさめ」の乗組員らしき海上自衛隊の幹部候補生たちが、二台のバスに分乗してやってきました。
【おまけ】
ハワイでは、レンタカーのドライブに加えて、生まれて初めてスカイダイビングに挑戦しました。北部のディリンガム飛行場で、インストラクターとタンデムのパラグライダーで降下するプログラム。高度14000フィート(約4300メートル)で機外に飛び出し、最初は約1分の自由落下でスリル満点の体験。
上空から見る、ハワイの山と海の色彩は絶景でした。降下した場所は、真珠湾を目指す攻撃第一波の水平爆撃機と雷撃機が通過した辺りで、日本海軍機の乗員はこの美しいハワイの景色を、どんな思いで見たのだろう、と思いました。しかし短時間での急激な気圧変化と、パラグライダー開花後の姿勢制御はけっこう身体にこたえました。
ハワイのホノルル国際空港は、今年4月27日に「ダニエル・K・イノウエ国際空港」へと改称されました。イノウエ氏は、ハワイ生まれの日系二世で、戦中は第442連隊戦闘団の一員としてヨーロッパでドイツ軍と戦った経歴(右腕を失う)を持ち、戦後は政界に入り上院議員や上院仮議長として活躍した人物です。
イノウエ空港のロビーには、彼の足跡に関する展示に加え、第二次大戦期の日系人部隊である第442連隊戦闘団と第100歩兵大隊、陸軍情報部所属の日系米軍人の活動に関する展示があります。1943年、ヨーロッパ戦線に送られた米軍日系人部隊は、終戦まで激戦を重ねて多くの叙勲を受けましたが、必要以上に「忠誠心」を示す必要があったため、死傷率も非常に高かった。
ハワイ・真珠湾のシンボル的施設である、アリゾナ記念館。日本軍の攻撃で大爆発を起こして沈没した戦艦アリゾナの船体上に作られた慰霊施設で、時間指定の整理券をもらってオアフ島から無料ガイドツアーで行きます。周辺には、他の沈没船の位置を示すコンクリート製の構造物もあります。真珠湾周辺の地形は平坦なので、日本軍の爆撃機や雷撃機のパイロットは、上空から目標を確認しやすかったでしょう。
アリゾナ記念館に向かう前、ツアー参加者は日本がなぜ対米開戦を決定したかという短い映画を鑑賞しますが、真珠湾攻撃を実行した東條内閣の一員として、岸信介商工大臣の顔の下半分も一瞬画面に映ったように見えました。先日ここを訪れた安倍首相も、この映画を観たと、首相らに同行取材していた外国人記者から聞きましたが、画面を指さして「あれが私の尊敬する祖父です」と言ったでしょうか。
真珠湾の戦史関係の見どころを回る拠点のビジターセンターには、小さい博物館があり、アリゾナ記念館の模型や、真珠湾攻撃の日本軍機が出撃した空母赤城の模型なども展示されています。戦艦ミズーリや潜水艦ボーフィン、太平洋航空博物館などのチケットはここで買えますが、ネットで事前購入するのが確実です。
真珠湾でアリゾナ記念館へ行く時間待ちをしていたら、遠くから軍艦が近づいてきました。よく見ると、なんと艦尾に旭日旗が翻っていて驚きました。真珠湾に旭日旗の軍艦?
「あれは海上自衛隊の訓練航海だね。戦没者に敬意を表して減速し、タグボートを伴っている」と米海軍の人が教えてくれました。艦名は「かしま」と「はるさめ」。真珠湾の港内で、アリゾナ記念館と、旭日旗を掲げた自衛隊の艦艇というツーショットは、いろいろな意味で興味深い光景ではありました。
真珠湾に展示されている米海軍の潜水艦ボーフィン。太平洋戦争中盤の1943年5月1日に就役し、日本の輸送船に対する通商破壊戦に従事。1944年8月22日には沖縄から疎開する学童を乗せた疎開船「対馬丸」を撃沈した潜水艦で、今は内部を一般公開しています。この潜水艦を前にして、私は沖縄で見学した、対馬丸記念館の展示内容を思い出していました。艦内は見学せず。
潜水艦ボーフィンのそばの陸地に展示されている、日本海軍の特攻兵器「回天」。英語の説明がストレートに言い表しているように「一人乗りの自殺魚雷」で、最初から敵艦への体当たりを目的とした兵器でした。私の父方の祖父は、戦後は個人でいくつか特許を持つエンジニアでしたが、戦中はこれに関わっていたとのこと。しかし私が小学生の頃に亡くなったので、どんな心境で回天に関わったのかは聞けませんでした。
ハワイ・真珠湾のフォード島に停泊している戦艦ミズーリ。現在は記念館として艦上と艦内の一部を公開していますが、艦橋など上層構造部の修繕工事が行われています(今年9月まで)。第二次大戦後期の1944年1月に進水し、米軍の硫黄島上陸や沖縄上陸に加え、朝鮮戦争や湾岸戦争でも支援砲撃を行いました。
戦艦ミズーリは、1945年9月2日に重光葵ら日本政府代表が、マッカーサーをはじめとする連合軍代表者と会って降伏文書に調印した場所でもあります(調印当時、東京湾に停泊)。降伏条約の調印時には、ペリー提督の掲げた古い星条旗が持ち出されましたが、今もそのレプリカがミズーリ艦上に展示されています。
ミズーリの艦上では、修復の一環として、木甲板の張り替え作業が行われていました。鋼板に木を並べるのは、防熱や防音に加え、歩く人への負担軽減(濡れても滑りにくく、衝撃も緩和される)という効果もあるそうです。
真珠湾のフォード島にある太平洋航空博物館。真珠湾攻撃当時に使われていた飛行場脇の格納庫を利用した軍用機の博物館で、ゼロ戦やB25(1942年4月18日に東京を爆撃したドゥーリットル隊の爆撃機)、ドーントレス、修復待ちのB17爆撃機などが展示されています。戦後のジェット機も少しあります。
午後にフォード島で戦艦ミズーリと太平洋航空博物館を見学し、帰りのシャトルバスを待っていたら、「かしま」と「はるさめ」の乗組員らしき海上自衛隊の幹部候補生たちが、二台のバスに分乗してやってきました。
【おまけ】
ハワイでは、レンタカーのドライブに加えて、生まれて初めてスカイダイビングに挑戦しました。北部のディリンガム飛行場で、インストラクターとタンデムのパラグライダーで降下するプログラム。高度14000フィート(約4300メートル)で機外に飛び出し、最初は約1分の自由落下でスリル満点の体験。
上空から見る、ハワイの山と海の色彩は絶景でした。降下した場所は、真珠湾を目指す攻撃第一波の水平爆撃機と雷撃機が通過した辺りで、日本海軍機の乗員はこの美しいハワイの景色を、どんな思いで見たのだろう、と思いました。しかし短時間での急激な気圧変化と、パラグライダー開花後の姿勢制御はけっこう身体にこたえました。
2017-07-16 23:44
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